ペリーの来航に少し遅れて長崎にやって来たロシアのプチャーチン。なぜプチャーチンは日本にやってきたのでしょうか。日本との交易、国境線の取り決めが目的であったといいますが、その裏にあった理由とは何でしょうか。今回は世界史的な視点に立って、プチャーチンの日本来航の理由を調べてみました。
この記事の目次
定期的に日本に使節を派遣していたマメな帝政ロシア
(画像:ロシアの国章Wikipedia)
ロシアにとって日本への使節派遣はプチャーチンが最初ではありませんでした。18世紀も終わろうとしていたころ、日本では松平定信の寛政の改革が行われていた時期に、ラクスマンが来航しています。ラクスマンは大黒屋光太夫を保護し、根室にやってきました。松平定信は長崎で交渉することをラクスマンに伝えますが、ラクスマンはそのまま帰国します。
ラクスマンの帰国は幕府が長崎入港許可書ともいえる「信牌」を受け取ったことで、国交樹立の約束ができたと判断したからです。ロシアはラクスマン派遣から約10年後にレザノフを日本に派遣します。レザノフの目的は「信牌」によって約束されているはず国交樹立の履行でした。しかし、幕府にとって「信牌」は長崎で交渉することを許可しただけで、交易することも国交を結ぶことも考えていません。レザノフは長崎に来航しますが、2ヶ月間、長崎の出島沖に放置されます。
その後、上陸が許され交渉が始まりますが、幕府に通商は「祖宗の法に反する」という理由でレザノフの要求を拒否します。議論の余地もないという拒否でした。日本(幕府)は清、朝鮮、沖縄(琉球)、オランダ以外とは交易しないというのが、幕府の国策であると主張したのです。結果、レザノフは何の成果もなく、長崎を去ることになったのです。ロシアは日本との交易を望み定期的に使節を派遣していましたが、幕府はそれを拒否していたのです。
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ニコライ1世ペリー艦隊派遣の報告を受けてプチャーチンを派遣
プチャーチンの日本派遣は、ロシア皇帝ニコライ1世の命を受けてのものです。まず、背景としてはイギリスの極東方面への進出があります。イギリスはアヘン戦争で清に勝利し、南京条約を結びます。これによって、極東におけるヨーロッパ勢力はイギリスが非常に優位になりました。
この時点でプチャーチンはニコライ1世に日本への自身の派遣を提言、清、日本との交渉を命じられます。しかし、トルコへの進出が優先される事態となり、日本への派遣は遅れていきます。ロシアの動きが停滞しているうちに、アメリカが動き出します。プチャーチンはペリーが日本との交易を求め出航したことを知ります。ここで、ロシア皇帝ニコライ1世は、あらためてプチャーチンを遣日全権使節として日本に向かわせるのです。プチャーチン来日の背景には、イギリス、アメリカの動きが大きく関係していました。
【クリミア戦争勃発】英艦隊の攻撃を恐れ上海に逃れる
プチャーチンはペリーに遅れること約1ヶ月半で長崎に来航します。長崎で国書を手渡し、幕府の交渉役が来るのを待ちますが、その間にクリミア戦争が勃発します。ロシアはイギリス、フランスに宣戦布告されることになります。極東はイギリスの勢力圏内であり、イギリス艦隊にいつ遭遇してもおかしくありません。
実際、プチャーチンはイギリス艦隊が極東方面のロシア艦隊の攻撃に出撃したという情報を得ます。プチャーチンは、イギリス艦隊の襲撃を避けるため、長崎をいったん離れ、上海へ向かうことになります。ヨーロッパ情勢に振り回され、プチャーチンは日本との交渉を進めることが出来ない状況になってしまいます。
日露合作のヘダ号に乗り英国船の追跡を振り切る
クリミア戦争の余波は極東にまで拡大します。ロシアの極東方面における最大の拠点であるカムチャツカ半島のペトロパブロフスクをイギリス・フランス同盟国の艦隊が砲撃、上陸戦を仕掛けようとしてきました。ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦といわれるクリミア戦争における極東最大の戦闘でした。この戦闘に日露交渉をしていたプチャーチンの率いる艦隊も参戦しています。
しかし、プチャーチンは戦闘には参加していません。現地指揮官に、艦隊を預け新しく旗艦となったディアナ号に乗り対日交渉のため、日本へ向かいました。戦闘はロシア側が、5倍の兵力を誇るイギリス・フランス同盟軍を破り、ペトロパブロフスク防衛に成功します。
しかし、ロシアは今後のペトロパブロフスク防衛は不利であることを悟り守備隊を撤退させるのです。戦闘終了後、プチャーチンはペトロパブロフスクに戻ってきました。彼は、日露交渉を成功させ、安政の大地震の津波で大破、沈没したディアナ号に代わり、日露合作で建造されたヘダ号に乗っていました。プチャーチンはロシア守備隊の撤退を知ると、ペトロパブロフスクを出ますが、途中でイギリス艦に発見されます。
日露合作のヘダ号に乗ったプチャーチンは、霧に紛れることによって、イギリス艦の追跡を振り切りました。
天津条約と日露修好通商条約を締結するプチャーチン
プチャーチンは日本との日露和親条約締結後も、極東方面で、ロシア皇帝の意向を受け、外交活動を継続します。清では、イギリス・フランス連合軍との間でアロー戦争が起きていました。この戦争でイギリス・フランス連合軍は広州、天津を占領します。
プチャーチンはこの機を逃さず、清とイギリス・フランス連合軍の仲介調停を行うという名目で戦争に介入しました。そして、清は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカと天津条約を締結します。この条約は清が条約相手国に大きな特権を認めた不平等条約でした。
プチャーチンの外交官としての仕事はまだ終わりません。今度は、日本に向かい、本格的な通商条約である日露修好通商条約を締結を締結しました。この条約は領事裁判権に加えて最恵国待遇が双務的となっている点が、日米修好通商条約と異なっています。プチャーチンはこのように、ロシア皇帝の意を受け、極東におけるロシアの権益確保に動きました。
幕末ライター夜食の独り言
ロシアの軍人であるプチャーチンがロシアの国益のために動くのは当たり前のことでしょう。プチャーチンは確かに親日家ではありましたが、それはロシアの国益が確保されているという前提の元での親日です。これは、現代であっても国家間の関係では全く同じことが言えるでしょう。日米修好通商条約と日露修好通商条約の内容はほぼ同じであり、不平等条約であることは変わりません。
双務的であるか片務的であるかの違いは、交渉に当たった幕府側のブレが要因だったと考えられます。極東方面における、イギリス勢力に対抗するという目的で、プチャーチンは外交手腕を発揮し、着実にロシアの権益を確保していきました。国際情勢の変化の中で、極東方面意おけるロシアの権益を確保するために、プチャーチンは来日したのであり、その目的を達成した優秀な外交官であったと評価することができます。
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