江川英龍といわれても、幕末の歴史に興味のある人以外は名前を知らないのではないでしょうか。少なくとも、教科書には載っていないか、記載があっても軽く触れている程度でしょう。江川英龍は戦前の歴史では高く評価され教科書でも取り上げられていましたが、戦後は教科書から消され、日本人でもほとんど知る人がいなくなってしまいました。
なぜ、江川英龍は教科書から削除されたのか?今回は江川英龍の業績と、戦後の教科書から削除された理由について調べてみました。
この記事の目次
現代人がほとんど知らない江川英龍の凄さとは?
幕末において、西洋列強の脅威を主張し攘夷論を展開したことで有名なのは吉田松陰でしょう。吉田松陰は幕末の志士に強烈な思想的影響を与えました。その生き方も破天荒で、ドラマチックです。しかし、吉田松陰が西洋列強の脅威を感じ、攘夷論を展開し、日本の近代化を訴える10年前にその位置に到達していたのが、江川英龍です。
吉田松陰が思想で人を動かしたのに対し、江川英龍はあくまでも実務と技術の人でした。モリソン号事件に端を発する危機感から、蘭学者と人脈を作り、日本における近代砲術の最高権威であった高島秋帆の教えを受け、それを更に進化させていきます。
攘夷実行のための日本の近代化、特に海防問題に対し取り組み、大砲の設計、製造、大砲製造のための鉄を作る反射炉の設計、江戸湾防衛のためのお台場の建設、近代軍制の基礎となる農兵の導入、軍隊の糧食についてはパンを考え製造も行っています。彼の実績は形のある物として実現していくのです。そして人材育成についても、最新の軍事技術である大砲製造、砲術を日本全国の藩士に教えました。その功績は幕末において高く評価されるべき人物です。
幕末の英傑を網羅した幅広い交友関係
もし、江川英龍を主人公に大河ドラマを作れば、史実を脚色しなくとも、多くの幕末の英傑が登場するドラマが作れるのではないかと思ってしまいます。それほどまでに幕末の英傑を網羅した人脈を持っていたのが、江川英龍という人物です。水野忠邦に抜擢され、その後の老中阿部正弘にも重用されます。多くの蘭学者とコネクションを築き上げ、その人脈を使って高島秋帆に至り、彼から近代砲術を伝授されます。
そして、高島流砲術を更に、改良進化させ、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎、伊東祐亨を門下として砲術を教えました。また、代官となり治めている地では、農学者である二宮尊徳を招聘し、農地の改良を行っています。江川英龍は幕末の英傑を網羅したといっていい幅広い交友関係を持った人物でした。
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戦前の教科書に江川英龍はどう紹介されたか?
戦後の教科書では消えて行った川英龍ですが、戦前の教科書ではどのように紹介されていたでしょうか。1943年の「初等科国史下巻」では高島秋帆と協力し新しい兵器を開発し軍備の充実を図ったと紹介されています。また、江川英龍が設計し、彼の死後に息子が完成させた反射炉の写真も掲載されています。大正時代、1921年発行の「新訂中学日本歴史下巻」でも同様の記述がみられます。江川英龍は戦前の日本では幕末時代の重要人物として教科書に記載されていた人物だったのです。
軍事だけではない大明神と慕われた韮山代官時代の功績
江川英龍は、代官であり治めるべき広大な土地があり領民がいたのです。その地で江川英龍は「世直し江川大明神」とまで慕われる善政を行っています。商品作物の栽培を奨励し、工作土壌改良のため二宮尊徳を招聘しています。更に、蘭学者との人脈を生かし、天然痘種痘をいち早く入手し領民に種痘を行い、江戸時代に多くの人の命を奪った天然痘から領民を守りました。江川英龍は、決して、軍事一辺倒の人物ではなく、代官としても有能な一流の人物だったのです。
どうして教科書から江川英龍が消されたのか?
敗戦後の教科書は全てGHQ検閲を受けました。江川英龍が教科書から消えたのはGHQの指令によるものでした。彼の実績である反射炉の建設は、大砲を製造する鉄を得るためです。GHQは日本に対し軍事的な物の一切を封じ込める政策を行いました。江川英龍について記述すればそれは、軍事について避けることはできません。
彼は海防問題に取り組み幕末の日本の安全保障を考え行動し実績を残してきた人物です。当時の安全保障は第一優先は、西洋列強に比べ後れを取っていた兵器、軍隊編成、運用の近代化でした。江川英龍は、軍事技術分野で幕末の中で突出した存在であっただけに、軍事色一掃を図るGHQの方針により教科書から消えていったのです。現在では、高校生の大学進学を目指す高校で使用される教科書で、江川英龍の名がでてきます。ただ、戦前のように初等教育の教科書で江川英龍の名前を見ることはないようです。
【一代官】江川英龍を行動に駆り立てた愛国心
江川英龍は決して、軍国主義者ではありません。彼が考えていたのは、日本を守ることだけです。ペリーが来航し、日本は開国しますが、西洋列強との軍事面での技術格差は非常に大きくなっていました。これは、普通に安全保障上大問題であり、これを問題と考えない政治家はどのような歴史の中であっても、凡庸のそしりを逃れられないでしょう。
江川英龍は代官ではありましたが、その管轄地は広大で江戸近くまで長い海岸線を有していたのです。海から攻めてくる外国に対し、どのようにして日本を守ればいいのか?これは、江川英龍の命題であったのではないでしょうか。そして、彼は西洋列強に比べ遅れていた軍事技術を挽回するかのように活躍していきます。西洋の技術を取り入れ反射炉を建設しそこで出来た鉄で大砲を製造し、爆裂弾の開発まで行います。
ただ、そのとき西洋はすでにライフリングのある砲弾を開発し、どうしても日本は一歩遅れを取っていたのは否めないのです。自分たちより、圧倒的に強大な軍事力、技術を持つ外国勢力に周囲を囲まれているという状況の中、江川英龍の取った行動は、限りなく正解に近い物ではなかったでしょうか。実際に、明治維新以降の日本は、まるで彼のやった事をなぞるかのようにして近代化していくのです。江川英龍をこのような行動に駆り立てたのは、圧倒的な強国から日本を守るという愛国心だったのではないでしょうか。
幕末ライター夜食の独り言
時代の状況を無視して、現在の考え方、イデオロギーで歴史上の人物を評価するのは決して正しいことではありません。そのようなことをすれば、戦国時代の大名など、ならず者の集まりでどうしようもありません。その時代に生きた人には未来は見えず、見えるのは歴史の中の現在であったということを、未来から歴史を振り返る現代の人は意識する必要があるのではないでしょうか。
江川英龍のおかれた時代では、圧倒的な軍事力を持つ外国勢力が日本の周囲で勢力の拡張を狙っていました。少なくとも、その時代の日本人が情報を集めればそう判断することになるでしょう。であれば、そのための対策をどうするかと考え、行動するのは評価すべきことです。江川英龍を兵器を開発していたので、軍事色が強く評価できないとするのは、あまりにも戦後に生まれた歪なイデオロギーに支配された考え方です。幕末における江川英龍の実績は、現代の安全保障を考える上でも、もっと評価されるべきではないでしょうか。
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