漢方薬といえば中国数千年の叡智が詰まった体に優しい薬というイメージが強いですよね。病院でも普通の薬ではなく漢方薬の処方を希望する人がたくさんいるほど人気があります。しかし、私たちが良く見かけるあの漢方薬は日本風にアレンジされたもので本場中国の伝統が詰まった薬とはまた違うものなのだとか…!私たちが良く知る漢方薬は一体何者なのでしょうか?今回は漢方薬の真の姿に迫っていきたいと思います。
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春秋戦国時代には漢方薬の原型といえるものが処方されていた
漢方薬は中国の薬ではないと断言する人もいますが、その起源はやはり中国に求めることができるでしょう。中国で薬を使った治療が行われはじめたのは春秋戦国時代であると言われています。加持祈祷によって病を治すことが主流だった時代に一石を投じたのは扁鵲という医者だったと言われています。
扁鵲は漢方医の始祖とも言える人物で、『韓非子』や『史記』にその活躍ぶりを記されています。彼は「どうすれば治らないか」に焦点を当てた「六不治」という概念を唱えていたのですが、その中に次のようなものがあります。
「身体が衰弱しきって薬を服用できない状態」
この言葉に鑑みるに扁鵲は薬を服用することを推奨していたことが窺えます。この薬というのは漢方薬の原型ともいえる存在だったと考えられるのではないでしょうか。
薬の材料は草や金属物質
漢代にもなると神仙思想が発達して方術が盛んになり、医学書がたくさん編まれるようになります。中でも有名なのは中国最古の医学書『黄帝内経』や伝染病について調べた張仲景による『傷寒論』、365種もの薬について説明している『神農本草経』です。
『神農本草経』ではあらゆる薬が上品・中品・下品に分けて解説されています。上品は無毒で長期服用しても問題の無い薬、中品は長期服用をすると毒になり得る薬、下品は毒が強いので長期服用できない薬です。できれば上品の薬を飲みたいところですが、「毒を以て毒を制す」という考えがあったので、酷い病に苦しんでいた人には下品の薬も処方されていたようです。
薬の材料は書物に「本草」という言葉が冠されていることからわかるように、基本的に草です。しかし、時には金属物質も薬の材料として使われていたようです。ちょっと時代が戻りますが秦の始皇帝も水銀を薬として飲んでいましたよね。
明代に最強の薬学書『本草綱目』が編まれる
薬学についての研究はその後も続けられていき、たくさんの本草書が編まれましたが、明代に至ってついに本草学の集大成ともいえる『本草綱目』が完成します。名医・李時珍が著したこの書物には1892種の薬が掲載されており、その作り方や効能までつまびらかに記されています。この『本草綱目』は中国国内で何度も出版されただけでなく、日本にも積極的に輸入され日本の本草学にも大きな影響を与えました。
日本式漢方薬が中国で大流行!?
『本草綱目』が輸入された後鎖国によって外国との交流が制限された日本では独自の薬学が発展することになりました。その結果生み出されたものこそが私たちが良く知る漢方薬であると言われています。
西洋医学が輸入されてからは漢方薬は一時見向きもされなくなってしまいますが、昭和の時代になってからは少しずつその人気が回復してきてエキス剤になるまでに発展し現代に至っています。一方、本家の中国では伝統的な薬のことを中薬と呼んで昔のように煎じ薬や丸薬として飲んでいる人が多いようです。しかし、中国では日本独自の漢方薬が話題になっており日本式漢方薬を求めてわざわざ日本にやってくる中国人がたくさんいるのだとか。所謂「逆輸入」状態になったわけですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
漢方薬といえば中国のイメージですが、漢方薬を完成したのは日本だったのですね。それでも、その軌跡を辿ってみれば中国数千年の叡智が詰まっていることは間違い無さそうです。日本の漢方薬が人気とのことですが、もし機会があれば本家本丸の中薬というものを見てみたい気がします。なんとなく飲みたくはないですけどね。
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