魏呉蜀の三国が中華統一を目指してしのぎを削った三国志の時代。しかし、三国志に詳しい方はご存知の通り、三国の国力は決して平等ではなく、6:3:1と魏が最強で呉がそれに次ぎ、蜀はもっともとぼしい国力でした。
もちろん、その差は兵力に反映され魏は動員兵力でも三国随一でしたが、実は呉と蜀が魏に勝てない理由は、ほかにもあったのです。
魏呉蜀の国力と兵力差
では最初に、魏呉蜀の人口と兵力について見てみましょう。
魏443万人
呉230万人(男女)
蜀94万人(男女)
このように、魏の兵力が呉と蜀の人口を併せているより多いのです。
次に魏呉蜀の兵力は
魏40~50万人
呉23万人
蜀10万2千人
魏の兵力数の推定に幅がありますが、魏の兵力が最小の40万人だとしても、呉と蜀を併せた兵力を上回っています。魏は兵力的に二正面作戦が可能であるのに対し、蜀と呉は共同しないと魏に対抗できないので、軍事的に不利です。
兵力差以上に深刻な兵の質
しかし、呉と蜀では兵力以上に魏に対し不利な部分がありました。それは魏が兵戸制により、屯田兵を主体とした常備軍を編成しているのに対して、呉と蜀は、いまだに兵力を君主に集中する事が出来ず、群雄割拠時代さながらに私兵団の寄せ集めだったのです。
私兵団というのは、有力な武将が個人的に兵力を保有していて、自分の命令で兵力を動かせる形態の事です。当然、この兵は君主の命令よりも直接の隊長である武将の命令を聞きがちであり、君主と武将たちの間に軋轢が生じた場合には、全ての兵力を動員できなくなる可能性がありました。
逆に魏では、兵力は兵戸に集められ、君主の命令によってのみ動く事になるので、40万なら40万人がすべて動員できる事になるのです。また、兵力を個々の武将が持っていないので大規模な反乱が起こせず、君主には大きなメリットが存在しました。
兵戸とは?
兵戸とは、流賊、募兵窮乏民、豪族の私兵、降伏兵、この5種を曹操が統合し1つの戸籍に登録して人数を把握したもので魏の常備軍として機能しました。
兵戸は、個人ではなく世帯で登録され、登録世帯から15~16歳より、64歳~65歳までの男子1名が永久兵役の義務を課せられます。兵戸には国家より土地が与えられ何とか食べていく保障はありますが、一度兵戸に登録されると、そこから抜けるのは容易ではなく、独身者は強制的に同じ兵戸と結婚させられ、兵力が減少しないように義務付けられました。
また、世帯から出した兵士が戦死すると、同一世帯の身内の男性が代わりに兵役を務めなければならず、兵士が脱走すると世帯全員が罰を受けます。兵戸は魏に安定した兵力をもたらしましたが、その待遇は過酷なものだったのです。
蜀の兵制
蜀の兵制については史料が少なくよく分からないですが、少なくとも兵戸制が採用された様子はありません。おそらく、劉備が荊州から率いてきた私兵と劉璋に与えられた兵力、さらに蜀を制圧した後には、東州兵を吸収したものでしょう。その為、大半の兵力は劉備の下にあり、劉備の死後は劉禅に受け継がれたと考えられます。
しかし、後年になると、例えば姜維が北伐の兵力を抱え、成都に還る事なく活動している点を見ると、中央の兵力と姜維の兵力は分離していたか、元々は中央の兵力だったものが、姜維の私兵化したのかも知れません。
そう言われてみれば、蜀最期の戦いでも姜維の軍隊は蜀軍の本隊と歩調が合わず、剣閣に立て籠もっている間に劉禅が鄧艾に降伏するなど、組織力を欠いた印象を受けます。蜀は中央がまとまった兵力を擁するものの、豪族の私兵も点在する状態だったようです。
呉の兵制
呉は、蜀以上に豪族連合の性格が強く、兵力についても世兵制が採用されています。世兵制とは兵を率いている武将が死ぬと、後継者がいるならその後継者に、後継者がいない場合や後継者が幼い時には、有力な武将に兵力と領地が引き継がれる制度です。
例えば、周瑜が死ぬとその兵力4000は息子の周循が継ぐはずでしたが、周瑜の領地の漢昌郡は統治が難しい土地なので、魯粛が相続し兵力4000もそのまま引き継がれます。
魯粛が死ぬと呂蒙が魯粛の兵力を引き継ぎますが、この頃には兵力10000名になり、呂蒙は漢昌太守として、劉陽、漢昌、州陵の地を兵力を養う土地として与えられていました。
また、呉の重鎮の韓当が疫病で死ぬと、息子の韓綜がその領地と兵力を引き継いでいます。このように呉では必ずしも兵力は君主の孫権に戻るのではなく、有力な武将から武将へ、当事者から後継者へ引き継がれている事が分かります。
私兵の寄せ集まりの弊害
呉にしても蜀にしても、全兵力を君主が握っていないので、どうしても豪族の力関係が政治に反映され、呉は蜀と連携して魏を追い詰める事が出来ませんでした。
逆に魏は、必要な兵力を辞令1つですぐに集められ、君主が命令を下せば誰にでも大軍を率いさせることが出来ます。その性質上、戦力は平均的で特別強い部隊などは存在しにくかったかも知れませんが、このデメリットは自在な兵力動員のメリットを上回りませんでした。
これは私兵の寄せ集まりの呉・蜀では難しい事だったのです。元々の兵力差にプラスして、兵力の動員が自在な魏と、私兵の限界が露呈する呉蜀では戦争の即応性と機動力において、大きな差が出てきたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
魏呉蜀の兵力差はよく問題とされますが、それに加えて兵権が豪族の中にあるのか、君主の中にあるのかも大きな要因だと思われます
。蜀の滅亡時における姜維の軍勢と蜀本隊の提携の杜撰さは、姜維の兵力が姜維の私兵と化していた事実を裏書きしていますし、呉の滅亡時には、20万人はいたと思われる兵力は半分も出撃していません。兵力を兵戸で統一した曹操の目論見は中華統一が近づくほどに有効性を増したと言えるでしょう。
参考:史実三国志 新たな発見に満ちた史実の三国志に迫る 宝島社 / 2019年7月2日
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