「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」等と主張し、現在世界中で物議を醸している経済学者でアメリカイェール大学のアシスタントプロフェッサー成田悠輔氏。この発言についてはとんでもない暴論と非難する人がいる一方で、特に若い世代に成田氏に共鳴する人が多く出た事が話題になりました。しかし、筆者は成田氏の発言に拭いきれない違和感を覚えるのです。
言葉が正しくない事への違和感
成田悠輔氏は「高齢者は老害化する前に集団自決や集団切腹みたいなことをすればいい」と言い、同時に安楽死の解禁や強制、尊厳死の議論を始めるべきと言い、同時に姥捨て山のような話を一緒くたに話しています。成田氏にとっては、集団自決も集団切腹も安楽死も尊厳死も姥捨て山も、高齢者が人生の最後を自発的に閉じるというアイコンで使用しているようですが、気づいた方もいるとは思いますが、それぞれの言葉は死に通じるものの意味合いは全く異なります。
例えば集団自決は敵に追い込まれ生存の見込みがない時に、敵に殺されるよりも肉親の手で自ら命を断とうと考えて引き起こされた悲劇です。一方の切腹は自らに疚しい事はないと周囲に見せるために腹を割いて、真心を見せるという武士の精神作法。安楽死や尊厳死は、病気の苦痛から免れる為に患者が自分の意思で延命措置を拒否する事です。最後の姥捨て山は、江戸時代、食糧生産力が低い東北の農村で、六十歳を迎えた高齢者が家族に負担をかけないために、自ら山に入り衰弱して死ぬ事を選ぶ因習でした。
こうしてみると、これらの言葉を一緒くたにするのは適切ではない事が分ると思います。しかし、成田氏は、これらを分ける事なくゴッチャにして話す。ここに筆者は強い違和感を感じるのです。
言葉が正しくないなら行動も必ず正しくない
春秋時代の中国の思想家、孔子は弟子に先生が衛国の政治を任されたら、最初に何をなさいますか?と問われ「まずは名を正す」と答えています。孔子は、物事には決められた名前があるが衛ではそれが乱れているので正しい政治にならない。ゆえにそれを正すとしたのです。
これは2500年前の衛国だけの話ではありません。21世紀の日本でも議論のすり替え、言葉の言い換えは日常茶飯事です。労働者を解雇する事をリストラと言い、未成年者の売買春を援助交際と言ったり、若い女性が年上の男性と食事をして金銭を受け取る事をパパ活と言ったりして、それらがあたかも誰でもやっている事でハードルが低いのだと錯覚させるのです。
成田氏は「安楽死の解禁や強制も将来的にあり得る話として議論を進めるべき」と主張しますが、そもそも患者の意志で選択される安楽死を法で強制したら、それは患者に取り「安楽死」ではなくなるのではないでしょうか?この言葉に対する「あまりにいい加減な感覚」に筆者は不信感を拭えません。
人の生死にかかわる事だから言葉は厳密に
成田悠輔氏を擁護する意見には、本当に高齢者に死ねと言う意味ではなく、高齢者に勇退して一線を退く勇気を持てという問題提起だとする捉え方もあります。確かに成田氏も肉体的な自殺ではなく、社会的な死も含まれるとコメントしています。ですが、それなら日本社会の若返りのため高齢者の皆さん。勇退して下さいでいいのではないでしょうか?
それをせずに切腹だの集団自決だの安楽死だ尊厳死だと、それぞれ意味合いの大きく異なる言葉を混ぜて刺激的に見せようとする。このような態度は言葉に対して不誠実であると同時に、あまりに幼稚であり飲酒して私的に放言するなら許されても、公の場で発言するには軽はずみが過ぎます。人の生死にかかわる事にはもっと慎重で真摯で厳密な言葉で議論すべきでしょう。
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