NHK大河ドラマ「どうする家康」の第六話「続瀬名奪還作戦」では終盤に瀬名と竹千代と亀の3名と元康が上ノ郷城で生け捕りにした鵜殿長照の息子2人が川を挟んで交換されるシーンが描かれました。ファンタジー大河と評判の今作、さすがに脚色だろうと思いきや、実はそうでもないようなのです。
モデルとなった菅沼定盈の人質交換
この人質交換にはモデルになった話があります。それが1573年に起きた野田城の戦いで武田の捕虜になった城主菅沼定盈と徳川方に捕らえられた山家三方衆との人質交換でした。
武田信玄、野田城攻略後に急死
武田信玄は、甲斐から出陣し家康の根拠地である三河を蹂躙し上洛を果たすつもりでした。しかし、1573年、菅沼定盈が守る野田城を落した所で病により急死。これで上洛どころではなくなった武田勢は甲斐に帰還する事になります。甲斐に帰還するとなれば、三河の野田城を維持できないので武田方は徳川に捕らえられた味方の山家三方衆と自分達が捕まえた菅沼定盈の人質交換に応じたのです。
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人質交換は川の中州でおこなわれた。
この人質交換の様子は寛永諸家系図伝によると、家康が騎兵2000を派遣して山家三方衆を護送し、武田信玄も菅沼定盈を騎兵2000で護送して廣瀬川の中州で交換したとされています。野田城の付近には現在も広瀬河原という川があり、ここの中州で人質交換が起きたと考えられます。大河ドラマでは中州はありませんでしたが、徳川と武田双方が2000騎を率いて中州で人質交換ならドラマ以上に緊迫感がある壮観だったのでしょう。
大掛かりな人質交換はあった!
このように武田と徳川双方が2000騎を率いて中州で人質交換をした記録があるので、大河ドラマの瀬名と鵜殿兄弟の川での人質交換も全くのフィクションとは言えないかも知れません。
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