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瀬名と鵜殿兄弟の人質交換はフィクション?実はそうでもなかった!【どうする家康】

2023年2月19日


築山殿(瀬名姫) 女性

 

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第六話「続瀬名奪還作戦」では終盤に瀬名と竹千代と亀の3名と元康が上ノ郷城で生け捕りにした鵜殿長照の息子2人が川を挟んで交換されるシーンが描かれました。ファンタジー大河と評判の今作、さすがに脚色だろうと思いきや、実はそうでもないようなのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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モデルとなった菅沼定盈の人質交換

真田丸 武田信玄

 

この人質交換にはモデルになった話があります。それが1573年に起きた野田城の戦いで武田の捕虜になった城主菅沼定盈と徳川方に捕らえられた山家三方衆との人質交換でした。

 

 

武田信玄、野田城攻略後に急死

自らの死を秘密にした武田信玄

 

武田信玄は、甲斐から出陣し家康の根拠地である三河を蹂躙し上洛を果たすつもりでした。しかし、1573年、菅沼定盈が守る野田城を落した所で病により急死。これで上洛どころではなくなった武田勢は甲斐に帰還する事になります。甲斐に帰還するとなれば、三河の野田城を維持できないので武田方は徳川に捕らえられた味方の山家三方衆と自分達が捕まえた菅沼定盈の人質交換に応じたのです。

 

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人質交換は川の中州でおこなわれた。

軍議(日本史)モブa

 

この人質交換の様子は寛永諸家系図伝によると、家康が騎兵2000を派遣して山家三方衆を護送し、武田信玄も菅沼定盈を騎兵2000で護送して廣瀬川の中州で交換したとされています。野田城の付近には現在も広瀬河原という川があり、ここの中州で人質交換が起きたと考えられます。大河ドラマでは中州はありませんでしたが、徳川と武田双方が2000騎を率いて中州で人質交換ならドラマ以上に緊迫感がある壮観だったのでしょう。

 

大掛かりな人質交換はあった!

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

このように武田と徳川双方が2000騎を率いて中州で人質交換をした記録があるので、大河ドラマの瀬名と鵜殿兄弟の川での人質交換も全くのフィクションとは言えないかも知れません。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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