今回は明治時代の実業家・渋沢栄一について取り上げます。渋沢栄一といえば、徳川慶喜の側近で明治時代に国立銀行の頭取として経営の指導に当たっていた人物で有名です。
渋沢栄一の生涯を年表にすると、幕末のパリ万博から明治・大正時代が中心となりますが、この記事では生い立ちから徳川慶喜の家臣になるまでの経緯と明治時代の実業家としての渋沢栄一に注目します。
徳川慶喜の家臣になるまでの渋沢栄一
1840年、渋沢栄一は武蔵国の豪農として生まれました。渋沢家は養蚕と米・麦・野菜の生産を手がける農家ですが、常に算盤が必要不可欠な環境で商売の才覚が常に求められていました。父と共に原材料の仕入れに同行するなど青年期から商売の経験を積んでいました。
江戸で遊学していたとき、一橋家家臣・平岡円四郎と交流し、平岡の推薦によって徳川慶喜の家臣となりました。徳川慶喜の名代として徳川昭武がパリ万博に出席したとき、渋沢栄一は随行員としてパリに行きました。パリに随行したとき、ヨーロッパの産業・経済システムを勉強しました。
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大政奉還後、渋沢栄一が明治時代の実業家になるまで
渋沢栄一はパリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えましたが、名代として出席していた徳川昭武はパリ留学を続けました。しかし、1868年の大政奉還で留学を断念して帰国することになりました。
大政奉還後、渋沢はフランスで学んだ経済システムを実践しました。1869年10月に大蔵卿だった大隈重信に説得されて、渋沢は大蔵省に入省します。大蔵省にいたとき、国立銀行条例に携わりました。
渋沢は大蔵省で大隈重信らと予算で対立し退官します。退官すると、大蔵相時代に指導していた第一国立銀行の頭取に就任しました。以降、実業家として多くの地方銀行の設立や東京瓦斯・王子製紙など500を超える会社の設立に関わりました。渋沢栄一は経営者として知られるようになりました。
渋沢栄一著『論語と算段』
渋沢栄一は数多くの会社の設立に携わったことで経営者として注目されるようになりました。渋沢栄一は大正時代に経営者の心構えとして『論語と算段』という本を出しています。
渋沢は著書の中で論語による人間形成と資本主義の利益追求のバランスが大切だと説いています。当たり前のことを言っているような印象を受けますが、明治時代は産業革命で利益を追究した結果、公害や労働者の待遇が悪くなるなど負の側面が出ていました。だからこそ人間形成と利益追求のバランスを取り戻そうと本の中で主張しました。現代でも株式投資などの金融取引や商売でもうけが出たら、利益追求ばかり追いかけてしまうことがあります。こうした性格を戒める本といえるのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治時代に実業家として台頭した渋沢栄一について取り上げました。渋沢栄一が徳川慶喜の家臣になるまでと大蔵省を退官してから実業家に転身するまでの経緯を知ることができました。
ここでは、渋沢栄一の名言の中から商売に関するものについて取り上げます。渋沢栄一の名言に「商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだ。」というのがあります。現代の企業では道徳ではなくコンプライアンス(法令遵守)の研修が行われていますが、渋沢栄一の経営理念を考え直すきっかけになるかもしれません。
最後に、渋沢栄一記念館について取り上げます。渋沢栄一記念館は埼玉県深谷市にあります。深谷市は渋沢栄一生誕の地で、渋沢栄一に関する資料などが展示されています。アクセスは世良田駅が最寄り駅です。
東京都には公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営する渋沢資料館があります。アクセスは、JR京浜東北線王子駅南口下車で徒歩5分、東京メトロの場合は南北線西ヶ原駅下車で徒歩7分の場所にあります。
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