甲斐の虎、武田信玄と言えば、一昔前までは哲人戦国武将であり風林火山の孫子兵法を自在に操る天才戦略家として織田信長を恐れさせた英雄でした。
しかし、この評価はずっと普遍だったわけではなく、江戸時代中期頃まで、信玄は父を追放した極悪人イメージが強かったのですが、甲斐の人々が負けずに信玄の「いい話」を広めていき、江戸後期に悪人イメージが覆されたのだそうです。
さて、甲斐の人々に感謝せねばならない信玄公ですが、彼の大きな功績、治水工事の真実についてほの日では迫ってみたいと思います。
この記事の目次
信玄堤は信玄が造っていない可能性も?
武田信玄が治めた甲斐国の中心には高い山々に囲まれた甲府盆地があります。ここでは急斜面を川が流れており、一度大雨が降れば、大水が山の上から押し寄せてきて人も家も牛馬も一息に流し去っていました。
そこで、信玄が築かせたのが有名な信玄堤です。一般的には釜無川下流に設けられた広大な堤防と考えられがちですが、信玄の時代に存在していた堤防は竜王という地域の一部だけに過ぎませんでした。
それ以外の大部分の堤防は、江戸時代に築かれたものであるようです。とはいえ、竜王付近は現在でも急流で知られていて、信玄の時代には猶更そうだった事が考えられますので、この地の住民や農地を守るべく信玄は、特に竜王に堤防を築いたのでしょう。
ちなみに信玄堤という呼び名は、江戸時代後期からのもので堤防が築かれた頃には、竜王川除場と呼ばれていました。また、信玄が堤防を築かせたと記した史料は同時代に存在しないので、本当に信玄が主導して堤防を築いたかどうか?研究者により意見が分かれているそうです。
しかし、堤防建設の大土木事業が、領主である信玄の意向抜きに出来たとは考えにくく、信玄堤に信玄が主導的な役割を果たしたか、あるいは関与したのは間違いないでしょう。
信玄堤の効果はよく分からない
武田信玄が築いたとされる信玄堤ですが、戦国時代当時どの程度機能したのか?は歴史的によく分からないそうです。それというのも、竜王の信玄堤も何度か決壊して修復したようですし治水工事が大規模化して、甲斐の人口が増え始めるのは江戸時代の事だからです。
ただ、信玄は家督を継ぐ前の晴信時代から、当主の信虎に治水事業を進言して却下された事が「勝山記」に出ているようで信玄が治水工事に並々ならぬ意欲を持っていた事は確かです。信玄の情熱が治水工事の先鞭をつけ、その後、数百年続く治水事業の切っ掛けになったとは言えるかもしれません。
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信玄堤の入念なメンテナンス
正確な年代は分かりませんが竜王の信玄堤は、弘治年間(1555年~1558年)頃、工事が始まり、御勅使川と釜無川の合流地点に長さ600mの土手と1㎞にわたる石堤を造って永禄3年(1560年)には工事が完成しているようです。
こちらが信玄の指示だとすれば、三十代半ばから四十歳にかけて取り組んだ事になり、生涯で一番脂が乗り切った時代の仕事になります。また、特筆すべきは、この信玄堤は建造して終わりではなく、周辺の住民に竜王への移住を呼びかけている点です。
理由は信玄堤のメンテナンスの為で、もちろん堤防が決壊すれば命がない危険な移住なので、竜王に移住した村人の棟別銭(家屋税)は無税という減税サービスつきでした。
また、信玄は竜王に竜王河原宿を整備し西郡道や信州道へ通じる宿としての機能を果たしていました。同時に信玄は、一宮町の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで御輿を練る「御幸さん」という水防祭りを盛大に行い、領民に治水の重要性を周知していく事も忘れていません。
信玄は甲斐領民総動員体制を確立した
信玄は父、信虎を追放した翌年には、領国内の村、町、宿に人足帳簿を提出させて戸籍を把握し、甲斐の民力を総動員する計画を立てます。そして、家屋税である棟別銭以外にも、土木工事に従事する普請役、宿に人馬の輸送を義務付ける伝馬役、あるいは合戦への参加まで義務付けていました。
武田信玄の政治の特徴は、このように戸籍を元に甲斐の領民数を把握して管理し、様々な役で雁字搦めにして動員しマンパワーで領国を発展させていく事だったのです。これらの税負担は、他の戦国大名の領民負担と比較しても重く、甲斐領民は支配者信玄により、その労働力を搾り取られていた事になります。
信玄の言葉としてよく引かれる「人は城、人は石垣、人は掘、情は味方、仇は敵なり」という有名な文句も、この極端に多い領民動員の事実を知ると、
「甲斐の資源はマンパワーじゃあー!甲斐発展の為に身を粉にして働けー」と信玄が鞭を振り上げて領民を煽っている光景に見えてきますね。甲斐の領民は、棟別銭、伝馬銭、普請銭を収める事を強いられ、毎日、毎日、必死の思いで生きていた事でしょう。
支配の一元化が信玄崇拝の元に
しかし、武田信玄による領民への支配力強化は悪い事だけではありませんでした。それまでの甲斐では、寺社、国人、守護職と複数の権力が並立し、領民はその時々で仕える相手を変えていましたが、武田信玄が戸籍を把握して人口を把握したので、支配者が戦国大名である武田氏に一元化されます。
つまり、領民の中に武田氏の民であるという帰属心が誕生したのです。同時に棟別銭や伝馬銭、普請銭は支払ったり労役をこなすのは苦しいものの、それにより甲斐が発展し、領民の暮らしが保障されるメリットや武田家と交渉し条件を呑む代わりに棟別銭や普請銭が免除されたりもしました。
支配の一元化が甲斐の領民に「オラが国の支配者、信玄公」というイメージを植え付けていき、信玄が没後数百年も甲斐の人々に愛されるご当地ヒーローとなる下地に繋がったのです。
戦国時代ライターkawausoの一言
武田信玄の治水工事が、どのていど、洪水の防止に役だったかはわかりません。しかし、信玄の治水への情熱は並々ならないものがありました。最初に信玄の治水への思いがあり、それがその後数百年続く治水事業に引き継がれていったという事は十分あり得ると思います。
また、信玄が領民の数を把握し、数々の労役を課した事が甲斐国の支配を信玄に一元化させ、甲斐武田氏に対して領民が帰属意識を持つ事に繋がり、山梨県の偉人、信玄公のイメージを生んだとも言えるでしょう。
参考:戦国武将の土木工事 単行本 – 2020/11/17豊田 隆雄 (著)
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