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[板垣退助は政治家になる前軍人だった!]日本一と呼ばれた指揮の天才はどうして自由民権運動に身を投じたのか?

2023年4月8日


板垣退助

 

板垣退助(いたがき たいすけ
)
といえば、演説中に襲われたとき「板垣死すとも自由は死せず」で有名になりました。板垣退助の生涯を年表で表すと、1837年に生まれてから明治新政府に至るまで、板垣が有名になる出来事がほとんどなかったため空白になっていることが多いです。

 

明治政府で明治六年政変において、西郷隆盛(さいごうたかもり)らとともに下野しました。西郷や江藤新平(えとう しんぺい
)
ら不平士族の反乱に加わる人や言論による運動に加わる人がいました。板垣退助と後藤象二郎(ごとう しょうじろう
)
は言論による運動に加わり、板垣退助は自由民権運動で有名になりました。

 

この記事では、ほとんど取り上げられない幕末までの板垣退助と明治時代の板垣退助について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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江戸時代の板垣退助

 

板垣退助は1837年に土佐藩の上士として生まれました。上士として生まれましたが、下士に対しても寛大だったといわれています。

生まれた頃から板垣ではなく乾退助と名乗っていました。乾家は武田信玄(たけだしんげん)の重臣だった板垣信方(いたがき のぶかた
)
が祖先である家柄にあたることから板垣退助と名乗るようになりました。

 

幕末の大河ドラマで板垣退助は登場することはありますが、坂本龍馬(さかもとりょうま)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)山内容堂(やまうち ようどう)ら主要な人物と比べるとあまり多く登場することはありません。板垣退助はなぜ明治政府で有名になったのでしょうか。

 

板垣退助が有名になった理由として戊辰戦争の活躍が考えられます。具体的には、甲州勝沼の戦いで近藤勇(こんどういさみ)の率いる新選組を撃破したことが挙げられます。

 

 

 

明治時代の板垣退助

 

 

戊辰戦争での活躍が評価され、板垣退助は明治政府の参与に就任しました。板垣ら明治政府の留守を任されていましたが、征韓論で岩倉具視(いわくら ともみ
)
らに反対され、1873年に明治政府を去りました。西郷隆盛ら征韓論で対立して主要な政府関係者が去った事件のことを明治六年政変といいます。

 

板垣退助は不平士族の反乱に加わらず、言論による運動を展開しました。板垣は1874年に愛国公党を結成しました。ともに下野した後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出しましたが、却下されました。そして、地元の高知に戻って立志社を立ち上げました。

 

1881年、10年後に国会を開設するという国会開設の詔が出されると、自由党を結成しました。自由党を結成すると、板垣は全国を遊説しました。1882年に岐阜で遊説中に暴漢に襲われました。この遭難事件を岐阜事件といいます。板垣は襲われて出血しながら言った「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が有名になりました。

 

大日本帝国憲法発布後、板垣退助は第二次伊藤人文内閣や第二次松方正義内閣で閣僚として加わります。1898年に板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が合併して憲政党を組織しました。この憲政党による内閣は第一次大隈重信内閣で、日本初の政党内閣となりました。板垣退助は内務大臣となりましたが、大隈重信・板垣退助のそれぞれ1字をとって隈板内閣と呼ばれています。隈板内閣は対立が激しく、わずか4ヶ月で内閣は総辞職となりました。このとき、板垣は政界を引退しました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

この記事では板垣退助の生涯について江戸時代と明治時代に分けて取り上げました。江戸時代の板垣退助はあまり知られていませんが、明治政府で有名になったきっかけとして戊辰戦争での活躍を挙げました。

 

板垣退助は明治六年政変で下野しましたが、言論による運動で有名になったことも挙げました。明治六年政変の後、板垣は内閣の閣僚として大臣を務めました。

 

板垣退助は紙幣の肖像画になっています。板垣が肖像画になっているのは、1953年から1974年にかけて印刷された100円札です。1974年に板垣退助の100円札の印刷が中止になることが決まると、現在の100円硬貨の製造が始まりました。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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