三国志ファンでもそうでなくても、中国の歴史に興味を持つ多く人が「尚書」という言葉を聞いたことがあるでしょう。「尚書」という言葉を聞いて五経の1つに数えられる『書経』の別名をすぐに思い浮かべる人もいると思いますが、多くの人は中国に昔あった官職を思い浮かべるのではないでしょうか?
でも、具体的に「尚書」がどんな役職だったのかについてはよくわからないという人が大多数だと思います。今回は「尚書」という官職に就いた人がどのような仕事をしていたのかをご紹介します。
尚書は周代から存在していた
尚書という官職は周代にはすでに存在しており、尚書は皇帝の秘書のような役割を果たしていたようです。秦代になると宮中の財政を司る少府という官庁ができ、尚書はその中の1つとして組み込まれました。そのとき尚書には尚書令という長官と尚書丞4人、尚書員5人の計10人が配属されていたようです。
前漢代にもこの機関は引き継がれたのですが、時代が下って行くにつれ、尚書の力の大きさは絶大なものに。尚書は皇帝の文章の管理にとどまらず、人々が持ってきた上表書を閲覧し、その内容を精査して皇帝に見せるか見せないかを決定する権限を持つようになったのです。
後漢代には1つの機関として独立
絶大な権力を誇るようになっていた尚書ですが、宣帝の時代に1度「皇帝の耳を塞ぐようなことをしてはいけない」という声が上がりその力を削られてしまいます。
ところがどっこい、尚書の力はその後メキメキと回復し、後漢代には尚書台として少府から独立。武帝の時代にはトップ官職であるはずの三公を凌ぐ力を持つようになり、実質的に宰相クラスの権力が与えられるようになりました。
中書に一時お株を奪われる
しかし、宰相の役割を担うようになった尚書は武帝が後宮に入りびたりであったために従来の皇帝の機密文書の管理をすることが難しくなり、尚書から分離した宦官の役職である中書がその仕事を引き継ぐことに。その結果、かつて尚書がその権力を拡大したように中書も朝廷内で権力をふるうようになりました。
そのため、尚書は中書にお株を奪われることとなってしまったのですが、これまた中書に対して非難が殺到した結果成帝の時代に中書は廃止され、尚書がトップ機関として返り咲いたのでした。
三国時代には尚書省として君臨
後漢時代に尚書台として権勢を誇った尚書は、三国時代にも尚書省と名を変えて受け継がれました。魏はもちろん、蜀や呉にも尚書は置かれ、尚書の長官は宰相クラスの力を持ちました。『三国志』では、荀彧や諸葛亮がその地位に就いていたことが有名ですね。
女の尚書も存在していた!?
尚書についてちょっと調べてみると「女尚書」なる言葉が出てきます。でも、ちょっと待ってください。中国で官吏になれるのは男性だけのはずですよね…?
その通りです。
実は、女尚書というのは後漢代から設置された後宮での役職であって女尚書となった女性が尚書省で尚書の男性と肩を並べて仕事をしていたわけではありません。しかし、男性の尚書と同様、女尚書も文書を管理する役割を担っていたため、教養があって頭がキレる女性が選ばれていたようです。魏の明帝・曹叡も女尚書を重用していたみたいですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
歴史書を読んでいるとたくさんの官職の名前が出てきますが、ほとんどの人はその官職がどのようなものかをスルーしてしまうと思います。でも、その官職が一体どのような仕事を担っているのかどのくらいの高さの地位の官職なのかを知っておけば歴史書に登場する人物がどれほどの人物なのかがまざまざと浮かびあげってきます。
尚書のように代々受け継がれている官職でも時代によってその地位が高かったり低かったりとややこしいこともありますし、官職を覚えるのは大変ですが、覚えることができたなら歴史書を今よりもっと面白く読むことができるでしょう。
▼こちらもどうぞ
石川五右衛門か!自ら釜茹でになろうとして孫権に止められた鄧芝