『戊辰戦争-明治新政府軍vs旧幕府軍-』によれば、
1868年の鳥羽伏見の戦いから翌年の函館戦争までの
明治新政府軍と旧幕府軍との戦争のことをいいます。
函館戦争は戊辰戦争最後の戦争です。
函館戦争後、榎本武揚は明治政府に加わり、
駐露公使として樺太千島交換条約の締結をしました。
『戊辰戦争-明治新政府軍vs旧幕府軍-』では、
榎本武揚の考えた箱館共和国については触れていません。
今回は函館戦争の経過と蝦夷共和国の構想について取り上げます。
函館戦争とは?
1868年から続いた戊辰戦争最後の戦争で、
蝦夷地の根拠地となっていた箱館の五稜郭城で戦いがありました。
五稜郭城はオランダの星形の城にならって建設された
城郭が特徴として挙げられます。
江戸幕府は蝦夷地の大部分を直轄地として支配していました。
江戸時代に箱館奉行が置かれていましたが、
明治新政府に変わると函館府を設置しました。
戊辰戦争の舞台が東北地方に移ると、
函館府を守っていたのはわずかな兵だけで手薄となっていました。
旧幕府軍は蝦夷地に上陸すると、
大鳥圭介と土方歳三が率いる部隊が二手に分かれて函館に進軍を開始します。
大鳥と土方らは新政府軍との戦いで勝利し、
函館を占領することに成功しました。
五稜郭城には無血で入場することができ、
榎本武揚が率いる艦隊を函館に入港させることに成功しました。
旧幕府軍が函館を占領すると、
新政府軍は函館に向けて兵を動かします。
1869年3月に青森に到着した新政府軍は蝦夷地上陸を開始します。
新政府軍が江差へ上陸し占領すると、
松前口・木古内口・二股口・安野呂口の
四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始します。
4つのルートで新政府軍と旧幕府軍との戦いが起こりましたが、
いずれも旧幕府軍は撤退をせざるを得ない状況でした。
1869年4月の終わりになると、
旧幕府軍の敗色が濃厚となったため、
旧幕府軍に帯同していたフランス人軍人が函館を脱出します。
大鳥圭介らが奇襲を試みますが、
失敗に終わりました。
1869年5月になると、
旧幕府軍は降伏し、
五稜郭城は開城されました。
函館戦争は終わるとともに戊辰戦争も終わりました。
榎本武揚が考えた蝦夷共和国とは?
榎本武揚は1868年12月に函館で新しい国家を建設しました。
榎本武揚が考えた国家を蝦夷共和国と呼ばれています。
蝦夷共和国の特徴について取り上げます。
なぜ榎本武揚が函館戦争の総大将になったのでしょうか。
榎本は幕臣の次男で、
咸臨丸の発注に伴いオランダに留学しました。
留学から帰国後、軍艦奉行に就任しました。
蝦夷共和国の総裁や閣僚を選挙で選びました。
この選挙の資格者は旧幕府軍の指揮官以上で市民は参加していませんが、
当時幕府と明治新政府にとって斬新なやり方だったと考えられます。
総裁選挙の結果、
榎本武揚が115票でトップを取り、
2位は松平太郎で14票しか入りませんでした。
このようにして蝦夷共和国の榎本総裁が誕生しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は戊辰戦争の最後の戦争である函館戦争について取り上げました。
函館戦争は明治新政府軍と榎本武揚が率いる旧幕府軍との戦いと
新撰組の副隊長だった土方歳三が戦死した戦い
という印象を受けている人が多いと思います。
この記事では、函館戦争の戦いの経過だけでなく、
榎本武揚が構想した蝦夷共和国について取り上げました。
蝦夷共和国は政権のトップを選挙で選ぶという
当時の政治の世界において斬新なやり方でした。
蝦夷共和国の選挙に市民は参加していませんが、
蝦夷共和国が長く続いていれば
市民を巻き込んだ選挙によって総裁が選ばれていた可能性があります。
終わりに、榎本武揚については旧幕府軍の総大将として担ぎ出されて、
函館戦争で新政府軍と戦いますが、
戦争後に駐露公使としてロシアとの外交問題の処理に取り組みました。
榎本武揚とロシアとの外交問題については『樺太千島交換条約とは』で取り上げます。
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