突如として開始されたパレスチナの武装勢力ハマスによるイスラエルに対するミサイル攻撃。及び1000人以上のハマスの兵士がイスラエル領土に侵入し、音楽フェスに参加していた民間人を襲撃し、残酷な手法で処刑しました。これに対しイスラエル側も反撃し、事態はイスラエル軍によるガザ地区への軍事進攻へ突き進んでいこうとしています。以前はオスロ合意などで和平の機運もあったイスラエルとパレスチナの問題は、どうしてこじれたのでしょうか?
イスラエル建国と中東戦争
1948年にパレスチナの地で建国されたイスラエルですが、それは、その時まで同じ土地に住んでいたパレスチナ人を追い出す形で実施されました。これを受けて周辺のイスラム諸国が激怒しイスラエルに攻め込んで中東戦争が開始されます。苦戦するイスラエル軍ですが、国連に認められた土地は死守し、以後はアメリカの支援を受けながら、着々と領土を広げ、第三次中東戦争では、国際法上認められていないパレスチナ人の土地まで占領、ヨルダン川西岸のパレスチナ人の土地には、入植者を送り込んでいきます。こうして、それまで、ナチスドイツに同胞を殺戮された可哀想な人々と見られていたイスラエル人はパレスチナ人の土地を武力で奪い弾圧する侵略者になり、国際社会で批判が強まります。
テロの応酬で和平が望まれる
その後も、戦いを繰り返すイスラエルですが、イスラエルのロビー団体により選挙資金の提供を受けているアメリカは、共和党、民主党ともイスラエルを支持し、軍事支援を繰り返したので、アラブ諸国は戦争に負け続けました。しかし、抑圧されたパレスチナ人の間でイスラエルに対する憎しみが強まりテロも激化します。イスラエルに対し、激しいテロを仕掛けたのは、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長でした。それでも永遠に続く憎しみの連鎖にイスラエルとパレスチナ両国民は疲れ果て、和平の機運が盛り上がります。こうして、1993年にはアメリカとノルウェーの仲介でイスラエルのラビン首相とパレスチナのアラファト議長がパレスチナ暫定自治合意、いわゆるオスロ合意を締結します。
破られたオスロ合意
オスロ合意では、2000年までにパレスチナにパレスチナ人で組織される自治政府の樹立とヨルダン川西岸とガザ地区からイスラエル軍が段階的に軍を撤退させる事が定められました。しかし、合意の期限となった2000年、イスラエルでは右派の政治家シャロン氏がそれまでのオスロ合意を反故にするような挑発行為を繰り返しました。こうして、イスラエルとパレスチナ住民の間で暴力とテロの応酬が繰り返されます。
シャロン氏が首相となり壁が建設される
イスラエルでは繰り返される爆弾テロで住民の世論が右傾化し、シャロン氏が首相に選ばれます。首相になったシャロン氏は、ヨルダン川西岸のパレスチナ人とイスラエル植民者の雑居地に壁を造り、外からパレスチナ人が入れないようにします。この措置により、イスラエル人入植地でのテロが激減。テロが減った事でイスラエル人も、オスロ合意なんかどうでもいいんじゃない?と現状を肯定する人が増えていきます。
パレスチナもハマスとファタハに分裂
一方のパレスチナでも、アラファト議長の死後に大きな問題が起きました。パレスチナ暫定政府ではアラファト議長の後継者として、同じファタハ党のアッバス議長が就任しますが、パレスチナ過激派の意見を抑えきれなかったのです。ここで台頭したのが武装組織である「ハマス」で、パレスチナの解放を訴えて、イスラエルに激しくテロを仕掛ける一方で、イスラムの教えに従い、ガザ地区の貧しい住民に食料や教育、住居の補修などの慈善活動をして勢力を拡大。2007年の選挙で大勝したハマスは、ガザ地区をヨルダン川西岸のパレスチナ暫定政府から切り離し、実行支配を開始したのです。
そして貧しいガザの人々だけが残った
パレスチナでは、暫定政府とハマスで路線が対立し、もはやパレスチナ人の統一した意見を代表する政府は存在しなくなりました。また、以前はイスラエルに対して強硬姿勢を貫いていたアラブ首長国連邦やバーレーンがイスラエルと国交を樹立。サウジアラビアもイスラエルに譲歩する姿勢がみられています。こうして、ガザ地区のパレスチナ人は忘れ去られ、自分たちを支援してくれるハマスを支持し、以前よりも強大になったイスラエルに立ち向かわざる得なくなってしまいました。でも、ハマスとガザ地区のパレスチナ人は=ではありません。イスラエルの軍事進攻で大勢の死傷者を出すのはハマスではなく、ガザ地区のパレスチナ人なのです。
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