400年にも及ぶ漢王朝は、漢民族にとって輝かしい時代と言われています。しかし、400年の間ずっと平和だったかといえばそうではありませんし、比較的安定していた前漢王朝もなかなか暗雲立ち込めた時代でありました。
そして、そのような状況の中で最も大きな被害を受けたのは民草ではなく皇族だったのかもしれません。今回は、漢王朝の皇帝の中でも数奇な人生を辿ったという中興の祖・宣帝の生涯にスポットライトを当ててみましょう。
この記事の目次
巫蠱の獄の犠牲者となった赤ん坊
後に宣帝となる劉病已は、なんと刑務所育ち。生まれてすぐに刑務所入りを果たした赤ちゃんでした。
「どんだけ気合入ってんの!?」と思う人もいるかもしれませんが、彼が何かをやらかしたわけではありません。
劉病已の一族は武帝時代に権勢を誇った江充という人物に「お前ら武帝のこと、呪ってるだろ」と疑いをかけられて処刑されてしまいました(巫蠱の獄)。その嫌疑は赤ん坊だった劉病已にまで向けられて投獄されてしまいます。本当であれば劉病已も処刑されるはずだったのですが、丙吉という治獄使者の計らいによって劉病已は命を奪われずに済みました。
丙吉は生まれたばかりの劉病已を特別憐れに思い、投獄されていた女性を乳母としてあてがってくれ、私費で養ってくれたのでした。
釈放後も民草として生きる
そんな劉病已にもついにお天道様の下で生きることが許される日が訪れました。しかし、劉病已は皇族のはずなのに釈放された後は平民扱い。平民として劉病已は小さな村で暮らし始めました。そこで劉病已は酸いも甘いも様々なものを目にしたと言います。そしてこの暮らしが宣帝となった劉病已の政治に大きな影響をもたらしたのです。
残念な皇帝に代わって即位
村で隠れるように暮らしていた劉病已ですが、ついに表舞台に駆り出されるときが来ます。
大叔父にあたる昭帝が崩御し、今度は父方のおじにあたる劉賀が霍光のプッシュを受けて即位。かと思いきや劉賀はあまりの素行不良のために呆気なく皇帝の位を降ろされることに。そこで白羽の矢が立てられたのが劉病已だったのです。ちなみに、即位の際劉病已の名前は2文字で諱を避けるのが面倒ということで劉詢に改名しています。
霍氏の勢力を一掃
宣帝は霍光と丙吉が後ろ盾になってくれたことによって立てられたのですが、宣帝は霍光が亡くなった後すぐに霍氏の権力を剥奪しに取り掛かりました。霍光の親族が朝廷にのさばっていたために宣帝は思うように政治を動かすことができなかったのです。
しかし、霍光の親族は猛反発。反乱を企てて宣帝から帝位を奪い取ろうとまで考えます。ところが、その反乱計画を知った宣帝は霍氏一族を根絶やしに。皇后であった霍光の娘をも廃位してついに自ら政治の舵取りをするようになったのでした。
信賞必罰!民草を愛する政治
宣帝の政治は法家思想に基づくもので「信賞必罰」を地で行くものでした。
それまでは儒者が政治の中心にいたのですが、宣帝は政治に疎い儒者を遠ざけ、政治の手腕が素晴らしい人物を積極的に呼び寄せました。そして、素晴らしい行いをした者には積極的に爵位を与え、逆に悪事を働いた者には厳しい刑罰で臨んだと言います。
また、宣帝は元々庶民として生活していたため、減税を行ったり塩の値段を大幅に下げたり物価を安定させるために常平倉という穀物倉庫をつくったりして民草を安んじる政策を次々に打ち出しました。更に、宣帝は内政に限らず外政面においても長年の強敵である異民族・匈奴を分裂させるなどの華々しい活躍を見せたので、前漢王朝の中興の祖として高く評価されています。
徹底的な現実主義のため儒教が嫌いだった宣帝
宣帝が素晴らしい政治手腕をふるうことができたのは、彼が刑務所で育ち、釈放後も庶民として暮らしていたために皇帝の位につく頃には徹底したリアリストとなっていたことが挙げられます。そんな宣帝は儒教が大嫌いでした。儒教はいわば理想主義であり、現実主義とは対極の存在だったからです。その嫌いっぷりは凄まじいもので、後に元帝となる息子・劉奭が儒教に心酔しているということを理由に廃嫡を考えるほど。
結局宣帝の孫にあたる子が元帝の元に生まれたことで廃嫡は見送られるのですが、儒家を必要以上に重んじた元帝によって前漢王朝は斜陽を迎えることになってしまったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
皇族であるのに、生まれてすぐに刑務所暮らしを経験し、釈放されてからも庶民として暮らしていた宣帝。そんな彼の数奇な人生が彼を賢帝たらしめたのでしょうね。
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