霍光とはどんな人?謙虚なキングメーカー後世の手本となる




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霊帝に本当の事をズバリと言う蓋勲

 

それがどんなボンクラでも、仕える主君を家臣が追放するのは評価されません。ましてや身分制が厳格な古代ならば人間以下の烙印を押されるのが当たり前でした。

 

武帝は前漢の第7代皇帝

 

しかし、長い中国の歴史には主君を追放しながら讃えられた人物がいました。前漢時代に武帝(ぶてい)昭帝(しょうてい)宣帝(せんてい)の3代に仕えた霍光(かくこう)がその人なのです。今回は、主君を追放しながら賢臣と讃えられた霍光について解説しましょう。




ズバリ霍光とは?

水滸伝って何? 書類や本

 

では、主君を廃位していながら名臣とされる霍光についてザックリ解説します。

 

1 名将霍去病(かくきょへい)の異母弟として武帝に引き立てられる
2 武帝死後、8歳で即位した昭帝の補佐を任される
3 対立した上官桀のクーデターを阻止し誅殺。
4 昭帝の絶大な信任を得て13年間政治を独裁
5 後継者なく崩御した昭帝に代わり劉賀(りゅうが)を帝位に就ける
6 劉賀が皇帝に相応しくないと27日間で廃位
7 前漢中興の祖、宣帝を即位させ引き続き権力を握る
8 紀元前68年死去。

 

以下では、霍光について、もう少し詳しく解説しましょう。

 

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名将霍去病の異母弟として出世

霍光

 

霍光は字を子孟(しもう)と言い、前漢の7代皇帝武帝の皇后衛子夫(えいしふ)の甥、名将霍去病の異母弟でした。霍去病が若くして匈奴(きょうど)討伐で戦果を挙げると、霍光も武帝に引き立てられていきます。

 

やがて霍去病が夭折すると、武帝は慎み深く有能な霍光を気に入り皇太子で8歳の劉弗陵(りゅうふつりょう)の補佐を霍光に命じ崩御。霍光は大司馬(だいしば)大将軍に任命され、金日磾(きんじつてい上官桀じょうかんけつと共に即位した昭帝を補佐します。

 

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昭帝の絶大な信任を得て上官桀を誅殺

劉弗陵を支える霍光

 

しかし、霍光と上官桀は金日磾が病死した後、次第に対立を深めていきます。上官桀は、昭帝の兄でありながら帝位につけなかった事を恨んでいる燕王(えんおう)劉旦(りゅうたん)、霍光と財政政策で対立した桑弘羊(そうくよう)と結託して昭帝に霍光を讒言(ざんげん)し失脚させようとします。

 

霍光追い落とし計画を企む政治家たち

 

ところが霍光を深く信頼する昭帝は讒言に耳を貸しませんでした。

 

讒言が入れられないと知った上官桀は、兵を伏せて霍光を討ち昭帝を廃するクーデターを計画しますが計画は漏れ、燕王劉旦は自殺し上官桀らは誅殺されました。昭帝が成人してからも霍光への信頼は変化せず、治世の13年間すべての政治を霍光に取り仕切らせています。

 

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昌邑王劉賀を27日で廃帝とする

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

しかし、霍光を信任した昭帝は紀元前74年に、子供がないまま19歳で崩御します。そこで霍光は最高責任者として、武帝の孫にあたる昌邑王(しょうゆうおう)劉賀を推薦、昭帝の皇后上官氏の勅命で帝位に就けます。

 

ところが、劉賀は長安までの道中、昭帝の喪の明けぬうちからどんちゃん騒ぎをしたり、後宮で官女とウヒョに耽ったなどで不品行を理由に上官皇太后(じょうかんこうごう)の詔で、僅か在位27日で帝位を廃され、海昏侯(かいこんこう)4000石に降格されました。

 

ただ、劉賀の不行跡をそのまま受け止める事は出来ず、実際には劉賀の腹心が霍光を排除しようと計画していたのが漏れ、霍光等に先手を打たれたと言うのが真相のようで、その証拠に劉賀の家臣は一部を除き、ことごとく処刑されています。

 

この劉賀ですが、どうも不健康な人物ではあったようで、宣帝の密命で様子を見に行った太守の報告では20代後半の劉賀は中風(ちゅうぶ)に罹り歩行が不自由であったようです。

 

その後も、訪問客への問題発言などで食邑(しょくゆう)を4000戸から3000戸に削られ、33歳で死去しています。劉賀は漢廃帝等と呼ばれますが在位期間が短い為に、皇帝として認められていません。

 

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名君宣帝を即位させて後死去

 

霍光は、次に武帝の曾孫の劉病己を推薦し、最初は陽武侯に封じてから9代皇帝、宣帝として即位させました。劉病己は、紀元前91年巫蠱(ふこ)(ごく)の陰謀で曾祖母の皇后衛子夫、祖父の房太子劉拠(りゅうきょ)、祖母の史氏(しし)、父の劉進(りゅうしん)、母の王氏(おうし)、それに兄と姉が処刑された時、ただ1人生き残った赤ん坊でした。

 

三国志時代の牢獄

 

最初は投獄されましたが、丙吉(へいきつ)により養育され恩赦で獄を出ると民間人として育てられた異色の人物でした。

 

劉病己は儒教も修めましたが遊侠を好んだり、闘鶏や馬術に熱中するなど劉備(りゅうび)劉邦(りゅうほう)のような人物であり、世間というものを知っていました。このような理由から、慎み深く風采のある大人物に育ち霍光に認められたようです。

 

しかし、即位したからと言って、宣帝が直ちに政務を執れたわけではなく、やはり政治は相変わらず霍光が裁いており、宣帝は白紙委任状を与える事を余儀なくされました。ただ、世慣れた宣帝は霍光に逆らうことなく、その健康が衰えるのを待つ事にします。

 

宣帝の即位から6年後、紀元前68年霍光は世を去りました。

 

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