霍光とはどんな人?謙虚なキングメーカー後世の手本となる

2021年3月14日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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霊帝に本当の事をズバリと言う蓋勲

 

それがどんなボンクラでも、仕える主君を家臣が追放するのは評価されません。ましてや身分制が厳格な古代ならば人間以下の烙印を押されるのが当たり前でした。

 

武帝は前漢の第7代皇帝

 

しかし、長い中国の歴史には主君を追放しながら讃えられた人物がいました。前漢時代に武帝(ぶてい)、昭帝(しょうてい)、宣帝(せんてい)の3代に仕えた霍光(かくこう)がその人なのです。今回は、主君を追放しながら賢臣と讃えられた霍光について解説しましょう。

 

ズバリ霍光とは?

水滸伝って何? 書類や本

 

では、主君を廃位していながら名臣とされる霍光についてザックリ解説します。

 

1 名将霍去病(かくきょへい)の異母弟として武帝に引き立てられる
2 武帝死後、8歳で即位した昭帝の補佐を任される
3 対立した上官桀のクーデターを阻止し誅殺。
4 昭帝の絶大な信任を得て13年間政治を独裁
5 後継者なく崩御した昭帝に代わり劉賀(りゅうが)を帝位に就ける
6 劉賀が皇帝に相応しくないと27日間で廃位
7 前漢中興の祖、宣帝を即位させ引き続き権力を握る
8 紀元前68年死去。

 

以下では、霍光について、もう少し詳しく解説しましょう。

 

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名将霍去病の異母弟として出世

霍光

 

霍光は字を子孟(しもう)と言い、前漢の7代皇帝武帝の皇后衛子夫(えいしふ)の甥、名将霍去病の異母弟でした。霍去病が若くして匈奴(きょうど)討伐で戦果を挙げると、霍光も武帝に引き立てられていきます。

 

やがて霍去病が夭折すると、武帝は慎み深く有能な霍光を気に入り皇太子で8歳の劉弗陵(りゅうふつりょう)の補佐を霍光に命じ崩御。霍光は大司馬(だいしば)大将軍に任命され、金日磾(きんじつてい、上官桀じょうかんけつと共に即位した昭帝を補佐します。

 

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昭帝の絶大な信任を得て上官桀を誅殺

劉弗陵を支える霍光

 

しかし、霍光と上官桀は金日磾が病死した後、次第に対立を深めていきます。上官桀は、昭帝の兄でありながら帝位につけなかった事を恨んでいる燕王(えんおう)劉旦(りゅうたん)、霍光と財政政策で対立した桑弘羊(そうくよう)と結託して昭帝に霍光を讒言(ざんげん)し失脚させようとします。

 

霍光追い落とし計画を企む政治家たち

 

ところが霍光を深く信頼する昭帝は讒言に耳を貸しませんでした。

 

讒言が入れられないと知った上官桀は、兵を伏せて霍光を討ち昭帝を廃するクーデターを計画しますが計画は漏れ、燕王劉旦は自殺し上官桀らは誅殺されました。昭帝が成人してからも霍光への信頼は変化せず、治世の13年間すべての政治を霍光に取り仕切らせています。

 

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昌邑王劉賀を27日で廃帝とする

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

しかし、霍光を信任した昭帝は紀元前74年に、子供がないまま19歳で崩御します。そこで霍光は最高責任者として、武帝の孫にあたる昌邑王(しょうゆうおう)劉賀を推薦、昭帝の皇后上官氏の勅命で帝位に就けます。

 

ところが、劉賀は長安までの道中、昭帝の喪の明けぬうちからどんちゃん騒ぎをしたり、後宮で官女とウヒョに耽ったなどで不品行を理由に上官皇太后(じょうかんこうごう)の詔で、僅か在位27日で帝位を廃され、海昏侯(かいこんこう)4000石に降格されました。

 

ただ、劉賀の不行跡をそのまま受け止める事は出来ず、実際には劉賀の腹心が霍光を排除しようと計画していたのが漏れ、霍光等に先手を打たれたと言うのが真相のようで、その証拠に劉賀の家臣は一部を除き、ことごとく処刑されています。

 

この劉賀ですが、どうも不健康な人物ではあったようで、宣帝の密命で様子を見に行った太守の報告では20代後半の劉賀は中風(ちゅうぶ)に罹り歩行が不自由であったようです。

 

その後も、訪問客への問題発言などで食邑(しょくゆう)を4000戸から3000戸に削られ、33歳で死去しています。劉賀は漢廃帝等と呼ばれますが在位期間が短い為に、皇帝として認められていません。

 

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名君宣帝を即位させて後死去

 

霍光は、次に武帝の曾孫の劉病己を推薦し、最初は陽武侯に封じてから9代皇帝、宣帝として即位させました。劉病己は、紀元前91年巫蠱(ふこ)の獄(ごく)の陰謀で曾祖母の皇后衛子夫、祖父の房太子劉拠(りゅうきょ)、祖母の史氏(しし)、父の劉進(りゅうしん)、母の王氏(おうし)、それに兄と姉が処刑された時、ただ1人生き残った赤ん坊でした。

 

三国志時代の牢獄

 

最初は投獄されましたが、丙吉(へいきつ)により養育され恩赦で獄を出ると民間人として育てられた異色の人物でした。

 

劉病己は儒教も修めましたが遊侠を好んだり、闘鶏や馬術に熱中するなど劉備(りゅうび)や劉邦(りゅうほう)のような人物であり、世間というものを知っていました。このような理由から、慎み深く風采のある大人物に育ち霍光に認められたようです。

 

しかし、即位したからと言って、宣帝が直ちに政務を執れたわけではなく、やはり政治は相変わらず霍光が裁いており、宣帝は白紙委任状を与える事を余儀なくされました。ただ、世慣れた宣帝は霍光に逆らうことなく、その健康が衰えるのを待つ事にします。

 

宣帝の即位から6年後、紀元前68年霍光は世を去りました。

 

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子孫は霍光を真似できず滅亡

三国志のモブ 反乱

 

霍光が死んだ後は霍禹(かくう)が跡を継ぎますが、霍光に全く及ばない能力にもかかわらず、権力を過信して傍若無人に振る舞い、宣帝の皇后の許平君(きょへいくん)を毒殺して代わりに一族の娘を宣帝の皇后に立てるなど専横を極めます。

 

世慣れた宣帝は怒りを表面に出さずに徐々に権力を回復。人望を失い追い詰められた霍禹等が謀反を計画したのを幸いに勅命を出して霍禹を捕え、腰斬(ようざん)という残酷な刑罰で処刑した後、その生母や姉妹など一族を皆殺しにしました。

 

こうして宣帝は、武帝以来の霍氏の勢力を根こそぎ一掃して、権力を皇帝の下に取り戻したのです。

 

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霍光が賞賛された理由

君主論18 kawausoさん

 

自らが即位させた劉賀を自分の都合で廃位させた霍光は、どうして非難されず逆に讃えられる存在になったのでしょうか?

 

第1に霍光個人は極めて謙虚で驕り高ぶらなかった事です。個人的に群臣の憎しみを買わなかった事は、敵を減らす事に役立ちました。

 

第2には、決断が早く僅か27日で劉賀を玉座から追放した事です。これが、1年でも放置していたなら劉賀も正式な皇帝として承認されて与党も出来て、排除するのは難しかったでしょう。

 

第3は、必ず上官皇太后に詔を出させ自身は裏に回った事です。当時の手続きを重視し霍光の独断でやったという印象を回避しました。

 

第4には、霍光が推薦した宣帝が前漢中興の祖とされる名君だった事です。霍光の劉賀廃位を批判すると、廃位の結果即位した宣帝を批判しないわけにはいかなくなりますからね。

 

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合肥侯擁立事件の引き合いに出された霍光

 

剛腕のキングメーカーぶりを見せつけながら賢臣として評価された霍光。彼は商王朝初期の名宰相、伊尹(いいん)と並び主君を追放しながら名臣と讃えられる事になります。

 

それから200年以上後、クーデターを興して霊帝(れいてい)を廃位し合肥(ごうひ)侯を擁立しようとして、冀州(きしゅう)の王芬(おうふん)や周旌(しゅうせい)、許攸(きょゆう)等が曹操(そうそう)もクーデターに引きこもうとした時、曹操は霍光の事例を引き合いに出しクーデターは失敗するとして参加を断りました。

 

 

曹操はクーデターそのものに反対ではありませんが、霍光の細心の注意に比較し、杜撰(ずさん)極まりない王芬や周旌の合肥侯擁立にはNOを突きつけたのです。このように霍光はクーデターを正当化する大義名分として、その後も簒奪(さんだつ)者たちの模範として存在し続けたのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

明らかに不忠の極みであるかに見える家臣による主君の廃位。しかし、それもやり方次第では、やむを得ない事、むしろ政治を悪化させない為によくやった!

 

と後世に賞賛される事があるんですね。

 

参考文献:漢書 霍光伝

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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