織田家の中でも一、二を争う出世頭・明智光秀。彼は比叡山延暦寺を焼き討ち後、滋賀郡を領土として与えられます。明智光秀は滋賀郡を領有すると琵琶湖に面する坂本の地に城を築城を実施。こうして明智光秀の坂本城の築城が始まりますが、民衆にとってチョー迷惑な築城だったのです。
城作りの作業員が集まらない
明智光秀は琵琶湖に面する坂本の地に城を築城する許しを織田信長から得ると早速城作りのための作業員を集めるため布令を出します。しかし城づくりを行うために募集した佐川・穴太・丹刈の人々が集まりませんでした。
明智光秀は佐川・穴太・丹刈へ呼びかけた築城作業員がやってこないことに激怒。そして明智光秀はとんでもない命令を出し始めるのでした。
「とっととこいや!!」by明智光秀
明智光秀は佐川・穴太・丹刈の地域から築城作業員が集まらないことに激怒。そして明智光秀は「給料を二倍にしてやる。戦場に出陣している者以外で村に残っている老若連れて夜中でもいいからとっととこいや!!」と命令を出すのでした。
明智光秀の命令を聞いた領民たちは光秀の命令を無視するわけにも行かずしょうがなく光秀の元へ出頭。こうして明智光秀は坂本城建築の人数を集めることに成功しますが、領民からすれば光秀の命令はチョー迷惑な命令でした。
農作業を捨てなくてはならい
明智光秀の命令を聞いた佐川・穴太・丹刈の領民たちは渋々築城作業員として光秀のもとへ出頭します。しかし領民たちは光秀の築城に参加するよりも大事なことがありました。
それは農作業を行うことです。明智光秀が築城作業に入った時期は現代の暦にすると7月の後半にあたります。
7月の後半は農作業において害虫駆除を行ったり、一度田から水を抜いて稲を強くする作業をしたり、肥料を田に与えたりと忙しい時期でした。そのため領民からしたら明智光秀の坂本城築城に参加するような命令はチョー迷惑でした。
しかし領民は領主となった明智光秀の命令を無視するわけにも行かずに渋々参加するのでした。
物量戦略で突貫工事
明智光秀は佐川・穴太・丹刈の地域から築城作業員を大量獲得することに成功し、一気に坂本城の築城工事を開始。しかし当時の近畿地方は雨が多く琵琶湖の湖水も例年よりも増加していつ湖水が氾濫をおこしてもおかしくない状況でした。
そのため明智光秀は坂本城を築城しながら琵琶湖の湖水が氾濫を起こさないように多くの資材と築城作業員を動員して治水工事も並行して行いつつ、坂本城の築城工事を行っていくのでした。
こうして明智光秀の居城・坂本城は一年かからないほどで完成します。しかし明智光秀の築城に協力した領民からしたら、大事な農作業の時間を築城工事に取られて、チョー迷惑だったで坂本城なんて潰れてしまえなんて思っていたかもしれませんね。
戦国史ライター黒田レンの独り言
領民は坂本城築城のため、農作業に必要な男手を失ってしまい農作業を中断しなくてはなりませんでした。そのため領民からすれば明智光秀の命令はとてつもなく迷惑な命令だったと思われます。しかし明智光秀にとっては坂本城築城はとっても大事なことだったのです。
坂本城築城がどうして大事だったのか。それは坂本城を建築することで明智光秀の収入が大きく増加するからです。
どうして坂本城を築城することで収入が増えるのでしょうか。
それは坂本城を少し北へ遡った所に美津浜の船着場がある比叡辻があり、この地には多くの陸上運送者が集まる土地でした。更に比叡山には多くの森林資源があります。
明智光秀はこれら二つの資源を坂本城に集中させることで坂本城を総合都市ととして実現させるため、領民を無理やり連れて来て坂本城築城を行ったのです。そして坂本城を築城したことで明智光秀の領内収入は一気に増加することになります。
明智光秀にとっては領民の迷惑を無視してでも上記の理由から坂本城を築城したかったのではないのかなと思います。
■参考 詳伝社新書 明智光秀残虐と謀略など
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