今回は福井藩主松平春嶽の政治顧問だった横井小楠について取り上げます。横井小楠は大河ドラマであまり登場することがないため、注目されていません。坂本龍馬や吉田松陰ら著名な人物が横井小楠の政治に注目していたという記録が残っています。
まず、横井小楠の生い立ちから福井藩松平春嶽の政治顧問になるまでの過程を取り上げます。次に、横井小楠の政治と思想について取り上げます。終わりに、大成奉還後の横井小楠について取り上げます。
横井小楠が福井藩主松平春嶽の政治顧問になるまで
横井小楠は1809年に肥後国(現在の熊本県)に生まれました。8歳で熊本藩の藩校時習館に入学し、1837年に時習館の居寮長(塾長)になりました。
1839年に熊本藩の藩命により小楠は江戸の遊学を命じられました。江戸に滞在している間に、水戸藩の藤田東湖ら幕末の著名な志士と交流します。小楠は私塾を開きました。この私塾に福井藩士が通うようになり、評判になりました。評判を聞いた福井藩が横井小楠を政治顧問として招聘しました。また、私塾に吉田松陰が通い、3日間小楠と松陰が議論したという記録が残されています。
坂本龍馬は小楠の自宅に通って、小楠と論争になりました。坂本龍馬と横井小楠は決別することになりましたが、龍馬の兄にあてた手紙で、当時の天才の1人として横井小楠の名前を挙げていました。当時の史料から坂本龍馬が横井小楠を高く評価していたことを知ることができます。
横井小楠の政治思想
横井小楠の政治思想について、幕藩体制を批判しました。幕藩体制において政治に参加できるのは武士の中で身分が限られていました。小楠は人々が身分の枠を超えて政治に参加できるようにします。また、小楠は鎖国制度も批判しました。福井藩の経済発展のために交易と産業振興を考えます。外国との貿易を重視した結果、藩の財貨は常時50万両ほど蓄えることができました。
坂本龍馬は神戸海軍操練所への資金援助を依頼するために福井藩を訪問しています。坂本龍馬が横井小楠と最初に会ったのは資金援助のときだったと言われています。
横井小楠の書物
横井小楠の書物について取り上げます。1852年に学問と政治の関連を論じた『学校問答書』を出版します。体系的な国家論の文書として、1860年に越前福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』があります。他に、ロシアのプチャーチンへの対応について意見書をまとめた『夷虜応接大意』などがあります。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は横井小楠について取り上げました。横井小楠は福井藩主松平春嶽の政治顧問となりましたが、大成奉還後は参与として明治新政府に加わりました。1869年に京都市内で殺害されました。明治政府内で小楠が開国を進めていたことから日本をキリスト教化しているのが殺害の動機でした。しかし、小楠はキリスト教が国内に入れば仏教と対立が起こることを懸念していました。よって、殺害の動機は誤解に基づくものだったと言えます。
横井小楠の政治について、明治維新にどのように生かされたのでしょうか。福井藩の政治顧問だったとき、産業振興によって福井藩を常時50万両蓄えることができるようにしました。福井藩の産業振興をヒントとするなら、明治時代の産業革命が当てはまるかもしれません。
明治新政府は産業を興すために御雇外国人を招聘しました。御雇外国人を招聘して官営模範工場を設立しました。結果、富岡製糸場など製糸産業が盛んになり、第一次産業革命では軽工業が盛んになりました。製糸産業だけでなく、欧米のさまざまな制度や産業を取り入れ、経済発展を遂げています。今後、横井小楠については政治思想から明治の産業革命の関係性について注目したいと思います。
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