織田信長といえば、変革の人や比叡山延暦寺の焼き打ちのように女性や子供関係なく殺害した残酷な人という印象を受ける人がいると思います。信長の別の側面では、家臣にあだ名を付けていたことや子供(幼名)の名前が現代のキラキラネームだったことも雑学として知られています。
今回は、織田信長が付けた主な家臣のあだ名について取り上げます。後半では子供の幼名について取り上げます。
信長が家臣に付けたあだ名
豊臣秀吉のあだ名について、大河ドラマなどで、織田信長は秀吉をサルと呼んでいますが、実際はサルと呼んでいなかったようです。信長は秀吉をハゲネズミと呼んでいました。秀吉が浮気をしたことで夫婦喧嘩となりました。信長は夫婦喧嘩の仲裁のために妻おねに手紙を送っています。
その手紙の中で、秀吉のことをハゲネズミと書いています。大河ドラマなどでは、信長は秀吉のことをハゲネズミと呼んでいません。どのようにして秀吉をハゲネズミと呼ばずに、サルと呼ぶようになったのか気になります。次に、信長のあだ名で有名なのは明智光秀です。明智光秀のことを「キンカン」と呼んでいました。
このあだ名は、光秀の頭の形がいびつで縦に長く、果物の金柑のような形だったことから呼ばれたと考えられます。実際にあだ名でキンカンと呼ばれると、読者の皆さんはどのように感じるのでしょうか。色々あると思いますが、読者の中には不快に感じる人がいるかもしれません。本能寺の変の動機については色々説がありますが、説の中で信長のあだ名であるとは考えにくいです。
次に、信長の家臣だった佐久間信盛について取り上げます。あだ名は「おおぬる山」です。1573年に越前の戦国大名朝倉を攻めたとき、朝倉が撤退したにもかかわらず、敵の撤退に気付かずに「おおぬる山」に陣取っていました。結果、朝倉軍の追撃に失敗しました。以降、佐久間信盛のあだ名は「おおぬる山」となり、怠け者・ぐずぐずした者を指す言葉になりました。佐久間信盛は古くから織田家に仕えていましたが、三方ヶ原の戦いで敗走するなど評価が悪くなり、信長によって追放されました。
終わりに、四国の大名長宗我部元親にもあだ名を付けていました。あだ名は「鳥なき島のコウモリ」です。長宗我部元親は土佐の大名でしたが、信長にとって小国の大名という印象だったと考えられます。長宗我部元親は四国を統一しますが、小さな島を統一できたのは周りに力のある大名がいないからだと皮肉を込めたあだ名であるといわれています。しかし、信長は長宗我部元親を高く評価していたといわれています。
信長の子供の名前―元祖キラキラネーム―
織田信長の子供(幼名)の名前はキラキラネームで有名です。嫡男は奇妙でした、顔が奇妙だったからといわれています。奇妙は元服して織田信忠になりました。次男は茶筅です。茶筅は茶道で使う道具のことです。信長は茶道が好きだったから付けたのでしょうか。後に元服して織田信雄になりました。三男は三七です。三月七日生まれということで三七と名づけられました。元服して織田信孝になりました。
他に八男は酌、九男は人、十男は良好でした。姫もいましたが、姫の中で五徳がいます。五徳とはガス台にある鍋ややかんなどを置く台のことです。五徳は松平信康に嫁ぎますが、信康は信長によって自害に追い込まれました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長の家臣や大名に付けたあだ名について取り上げました。後半で信長の子供の幼名について取り上げました。織田信長のあだ名について、秀吉や光秀の場合、見た目の印象から付けた可能性が高いと思います。佐久間信盛の場合、朝倉追撃の失敗から付けられました。このような失敗が原因であだなとなって呼ばれると、現代の会社では社会問題になる可能性があります。信長の子供の幼名について、キラキラネームの元祖であるかもしれません。戦国時代は元服して名前を変えることができましたが、現代では名前を変えることがかなり難しいです。
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