榎本武揚とは戊辰戦争最後の戦争である函館戦争で戦った人物や明治政府に加わって樺太と千島を交換した条約を締結した人物として知られています。『その時歴史が動いた』で榎本武揚が目指した蝦夷共和国について放送されると、注目されるようになりました。
今回は榎本武揚について、函館戦争までの榎本武揚と函館戦争の概要を取り上げます。この記事の後半では、榎本が建国を目指した蝦夷共和国と明治政府に加わってからの榎本武揚について取り上げます。
榎本武揚とは
1836年に幕臣・榎本武規の次男として生まれました。幕臣になると勝海舟のもとで航海技術を学びます。幕府が開陽丸を発注することに伴い、オランダに留学します。オランダから帰国後、幕府海軍の指揮官となりました。戊辰戦争の最初の戦争である鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退したのを知ると、開陽丸で江戸城を脱出し、東北地方に向かいました。
戊辰戦争開始後に函館は新政府軍に占領されましたが、開陽丸を率いて蝦夷地を占領することに成功しました。蝦夷共和国を建国しましたが、函館戦争で降伏しました。新政府軍の黒田清隆の助命により、榎本は明治政府に加わりました。明治政府では駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結しました。その後、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任しました。1908年に病気で死亡しました。
函館戦争とは
『戊辰戦争最後の戦争―函館戦争―』では、函館戦争で榎本武揚が率いる軍が降伏するまでの過程を取り上げています。旧幕府軍は蝦夷地に上陸し、新政府軍が一時的に占領していた函館を奪うことに成功しました。土方歳三や大鳥圭介らが五稜郭城に入城すると、榎本武揚の率いる艦隊が函館に入港しました。
旧幕府軍が函館を占領すると、新政府軍は函館に向けて兵を動かします。新政府軍が蝦夷地に上陸すると、旧幕府軍との戦いが起こりましたが、いずれも旧幕府軍は撤退をせざるを得ない状況になりました。1869年4月の終わりになると、旧幕府軍の敗色が濃厚となったため、旧幕府軍に帯同していたフランス人軍人が函館を脱出します。土方歳三は前線で新政府軍と戦っていましたが、戦死しました。1869年5月になると、旧幕府軍は降伏し、五稜郭城は開城されました。函館戦争の終結で戊辰戦争は終わりを迎えます。
榎本武揚が建国した蝦夷共和国とは
『その時歴史が動いた』で蝦夷共和国の建国を目指したことが放送されると、榎本武揚が注目されるようになりました。『戊辰戦争最後の戦争―函館戦争―』では、榎本武揚が蝦夷共和国の総裁になった経緯について取り上げています。蝦夷共和国の総裁や閣僚については選挙で決めました。この選挙の資格者は旧幕府軍の指揮官以上です。
なお、この選挙について市民に参加資格はありませんが、当時幕府と明治新政府にとって斬新なやり方だったと考えられます。総裁選挙の結果は次の通りです。榎本武揚が115票でトップを取り、2位は松平太郎で14票しか入りませんでした。このようにして蝦夷共和国の榎本総裁が誕生しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
ここでは、榎本武揚のエピソードについて取り上げます。2006年の正月に『新選組!!土方歳三 最期の一日』で、榎本武揚と土方歳三の会話の内容が印象に残っている人がいると思います。この会話で、榎本武揚がつまみとしてサンドイッチを食べている姿がありました。サンドイッチではなく海外留学の経験から「サンドウィッチ」と
正確な発音をしています。土方歳三がロマンチストではなく「ロマンチ」という変な区切り方をしていたことを思い出す人がかもしれません。榎本武揚は函館戦争で降伏してから投獄されますが、獄中でもビールを飲んでいたというエピソードもあります。
▼こちらもどうぞ