今回は藤堂平助について取り上げます。藤堂平助は21歳の若さで暗殺されて死亡していることからほとんど記録が残っていません。この記事では藤堂平助が新選組に加わり、新選組を離れて御陵衛士に加わって暗殺されるまでを取り上げます。
新選組時代の藤堂平助
藤堂平助は新選組八番隊組長でした。平助の出自については確定していませんが、旗本5000石の出身であるという説が有力です。平助は学問と武芸ともに秀でた人物で、壬生浪士組の初期の頃から近藤勇や土方歳三らとともに行動していました。斉藤一とともに最年少幹部となり、八番隊組長となりました。
1864年の池田屋事件では、一階の庭を持ち場として、逃亡しようとする浪士を相手に戦いました。切り込んだ池田屋は蒸し暑く、額を汗で拭って、鉢にあった水を汲もうとしたとき、潜んでいた長州藩士に切りつけられました。平助は額を割る大けがを負い、一時生死をさまよう危篤状態に陥りましたが、一命を取り留めました。池田屋事件後、藤堂平助は近藤・土方に次ぐ20両もの報奨金を受け取りました。
御陵衛士時代の藤堂平助
1867年4月に藤堂平助は伊東甲子太郎らとともに御陵衛士を結成するために新選組を離脱しました。本来、平助は尊王攘夷派だったといわれています。御陵衛士は京都の高台寺を屯所としていたことから高台寺党と呼ばれています。
御陵衛士時代の平助の活動について、伊東甲子太郎らとともに連名で長州藩への寛大な処分を求める建白書を朝廷と幕府に提出しました。御陵衛士時代に、英語の習得やロケット製造方法の研究を始めます。研究の成果が認められ、韮山にある江川太郎左衛門の塾で砲術免許を取得しました。
1867年11月に油小路事件が起こりました。この事件は新選組が起こした事件で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の殲滅を目指した粛清が行われました。平助は伊東甲子太郎の遺体を奪還するために新撰組の隊士と戦いますが、戦死しました。平助の傷は額から鼻にかけて達していたことから即死であったと思われます。平助らの遺体は御陵衛士の残党をおびき出すために放置されたといわれています。
藤堂平助の美貌
藤堂平助は池田屋事件や油小路事件で顔に傷を負いますが、九州の薩摩藩の藩士が平助について取り上げています。薩摩藩士が新選組・御陵衛士の隊士である平助の容貌を報告していることから、京で知らない者はいないほど有名になっていたのかもしれません。
しかし、平助の写真や肖像画は残されていないため、実際に美男であったかどうか確かではありません。CGなどで平助の容貌の復元など最新の研究に注目したいと思います。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は藤堂平助について取り上げました。藤堂平助は美男子で有名で、新選組ファンの間でも人気がある隊士ですが、若くして暗殺されたため記録がほとんど残っていません。平助は御陵衛士時代に英語を習得していますが、英語のレベルについては分かりませんでした。どのくらいの期間で英語を習得したのか気になります。
最初に、藤堂平助の墓について取り上げます。平助の墓は京都市の泉涌寺にある小寺・戒光寺にあります。泉涌寺は京都駅からバスに乗ると行くことができます。JR東福寺駅から行く場合、徒歩20分の場所にあります。平助だけでなく、御陵衛士の同士だった伊東甲子太郎らの墓もあります。平助らの墓の近くには孝明天皇の墓である東山陵があります。
最後に、アニメシリーズの『薄桜鬼』では藤堂平助の名言があります。アニメでは様々な名言を残していますが、実際に藤堂平助が新選組時代や御陵衛士時代に残した名言はありません。藤堂平助の最新の研究で名言があるのかどうか注目したいと思います。
▼こちらもどうぞ
桂小五郎が新選組から逃げる方便「ウンコしたい!」がいっそ清々しい