織田信長は、8人の女性を愛したといわれています。しかし、記録にはあまり残っていないため、詳しいことは分かっていません。戦国時代、女性は10代前半で嫁ぐことが多かったにもかかわらず、信長の妻となった女性は、夫が戦死して実家に戻ってきているところを信長が見初めたケースなどがあり、当時としては比較的年上であったということができます。
また、当時は戦国武将のあいだで男色もありました。女性だけを愛し、一切男性に興味を持たなかったのは豊臣秀吉くらいだったそうです。信長が森蘭丸を側に置いていたことは確かですが、恋愛のような関係にあったのかは分かっていません。しかし、信長と前田利家は、主従関係にありながら、より深いつながりがあったそうです。
信長と利家の関係については、加賀藩の資料にも残されています。戦国武将のあいだでごく普通であった男色は、西洋人の目からすると奇妙に映ったのでしょうか、周防国の大内義隆は、謁見に来たフランシスコ・ザビエルに男色を批判されています。さて、ここから信長の妻となった女性について見ていきましょう。
日本における男色は女人禁制の場所にいる事が多い僧侶や公家の間で始まったそうです。やがて、公家に代わり武家が政権を握ると、戦地という女っ気が一切ない土地での性欲処理の必要から小姓のような下位の者を疑似的な恋愛対象として選ぶようになり、ほとんど僧侶の伝統が武家に移ったような観があったとか
室町時代には幕府に小姓の制度が確立し、足利義満の小姓だった世阿弥は義満の寵愛を受けて、その庇護を受け能楽が発展していった側面もあります。このような事から、男色は高尚な趣味であるという考え方が戦国時代にはあり、豊臣秀吉に男色の趣味がないのは「殿上人としての威厳を損なう」と心配して秀吉の部下が積極的に美少年の小姓を送り手をつけさせようとした逸話もあります。
濃姫(帰蝶)
信長の最初の妻、濃姫は、信長が若い頃勢力を誇っていた美濃国に戦国大名である斎藤道三の娘です。尾張国の信長とは、政略結婚で結ばれましたが、ふたりの間に子どもがいたという記録は残っていません。また、濃姫というのは「美濃国の高貴な身分の女性」という意味で、当時本当にそのように呼ばれていたというわけではありません。
また、帰蝶という呼び名も、江戸時代に書かれた文献に登場する名前です。現在、大河ドラマや信長を題材とした漫画などでは「帰蝶」という名前で描かれることが多いのですが、当時はどのような名前で呼ばれていたのかは謎に包まれたままです。
生駒の方
生駒の方は、信忠・信雄・徳姫の母となった女性です。もともとは、土田弥平次という武将の妻でしたが、夫が戦死したため実家に戻っていたところを信長に見初められました。側室ではありましたが、信長の長男である信忠を産んだため、正室と同じように大切にされていたそうです。徳姫は、信長の長女でした。しかし、3人の子を産んだ後、生駒の方は産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。
お鍋の方
お鍋の方は、信高・信吉・於振の母となった女性です。文学をたしなみ、公家との交流もあったとされています。お鍋の方も、もとは小倉氏の妻で、ふたりの息子がいました。しかし、夫が戦死し、息子たちが敵方に人質にとられてしまいます。そのとき、息子たちを助けたのが、信長だったのです。
そして、信長は美しいお鍋の方を自分の城に連れて帰り、側室にしたのです。信長に助けられた、お鍋の方と小倉氏のあいだに生まれたふたりの息子は、信長に仕えることになりました。次男の松千代は、本能寺の変のときに信長に忠誠を尽くし、殉死しています。
慈徳院
慈徳院は、三の丸殿の母となった女性です。三の丸殿は、肖像画が残っており、当時の身分が高い女性が着用していた豪華な打掛を身にまとっています。さて、三の丸殿の母である慈徳院は、もとは信長の長男である信忠の乳母でした。そこで、信長の目にとまり、側室となったのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
信長は、若く華やいだ雰囲気の女性よりも、歳を重ねて落ち着いた女性を妻にすることが多かったようです。一般的に、国をまとめるほどの権力を持った男性は大勢の妻を娶ったり、若い女性を自分のものにすることを好みますが、どうやら信長の場合はそうでもなかったようです。
また、信長は自分の娘たちを敵将との政略結婚に使うことはせず、裏切らなさそうな家臣に嫁がせています。さらに、夫婦仲がうまくいっていないらしいと聞けば、自ら赴いて確かめに行くような父親でした。冷酷で残忍といわれ、戦で容赦なく敵を滅ぼしていった信長も、じつは家族という側面から見ると保守的で優しい一面があったのかもしれません。
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