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鎌倉時代農業:生産性向上の真実[歴史の舞台裏]

2024年2月1日


鎌倉時代の洋服

 

鎌倉時代は、農業が大きく発展した時代でした。この時代になって、日本ではじめて二毛作(にもうさく)が行われるようになりました。二毛作とは、同じ田んぼを使って、夏と冬で別の作物を作ることをいいます。同じ田んぼで、米と麦を作っていたのです。

 

この二毛作によって、それまでの時代と比べると農作物の生産性が大きく向上しました。また、牛や馬に畑を耕させることにより、広い土地を人間だけで耕さなくてもよくなったことも、農作物の生産性の向上につながりました。また、牛や馬に中国から伝わった(すき)をつけて耕すことで、効率良く農業ができるようになりました。そして、草や木の灰だけでなく、牛や馬の糞も肥料として使用するようになりました。

 

さらに、鍬や(かま)、鉈といった農機具がこの時代に発達したため、より深く田んぼを耕せるようになったのです。また、これらの農具はそれまで田んぼとして使われていなかった土地を開墾(かいこん)するのにも大変役に立ちました。鎌倉時代になると、灌漑設備(かんがいしせつ)も発達しました。水車を使って、川から田んぼに水を入れることができるようになったのです。これにより、さらに多くの土地を田んぼとして活用できるようになりました。ちなみに、田植えは女性の仕事とされていました。

 

また、農業をするときは、どらを鳴らしたり、笛を吹いたりしながら、ワイワイと賑やかに行われました。鎌倉時代の農民たちの「みんなで活気づけながらハードな仕事をこなし、生産性を向上させる」というアイデアは、現代の私たちにとっても参考になるかもしれません。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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苦しい生活を強いられた、荘園の農民たち

農民

 

 

鎌倉時代は農業の生産性が大きく向上し、豊かな農民も出てきました。しかし、武士や貴族、寺院の僧侶が管理する荘園の農民は、せっかく作った米も3割から4割、多い時は5割以上も年貢として納めなければならなかったのです

 

荘園の農民は暮らしも豊かではなく、ちゃんとした家に住むことなどできなかったため、土間にゴザをひき、肩身を寄せ合って生活していました。また、戦のときには戦士として駆り出されることもありました。さらに、無償で武士の家の修理を行ったり、橋をかけたりするといった雑用もさせられていたのです。

 

鎌倉時代、農民の中でも、貧富の差が広がっていきました。貧しい農民は休む間もなく汗水流して農作業をしていました。しかし、鎌倉時代の農民たちの血の滲むような努力があったからこそ、日本の農業技術が大きく進歩した、ということができるのです。

 

 

 

鎌倉時代の大飢饉によって、田畑は大きなダメージ!

鎌倉時代の大飢饉によって、田畑は大きなダメージ!

 

鎌倉時代、大きな飢饉(ききん)が2回起こり、そのとき農作物の生産量は激変してしまいました。最初の飢饉は、1231年の寛喜(かんき)の大飢饉です。この飢饉が起こる1年前の夏は異常気象で、冬のような気候だったため、大凶作になってしまいました。そして、この凶作を受けて翌年の1231年に大飢饉が発生したのです。この時、いたるところに餓死者の死体が放置されていたそうです。

 

人柄も優れ政務も有能だった北条泰時.jpg

 

 

 

この飢饉の状態は、1239年ごろまで続きました。ちなみに、北条泰時(ほうじょうやすとき)が制定した御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、この飢饉の最中でした。そのため、御成敗式目の内容は寛喜の大飢饉の影響を受けて制定されている、とされています。

 

次の飢饉は、1257年の正嘉(しょうか)の飢饉です。このときは、大地震などの自然災害、冷夏、そして暴風雨などが起きてしまいました。また、それだけでなく火災によって多くの人が亡くなりました。この飢饉のときも、鎌倉は餓死者の死体であふれていました。このとき、道に捨てられた病人を無常堂(むじょうどう)と呼ばれる施設に収容することが定められました。この飢饉は、1259年まで続きました。

 

鎌倉時代の農民は、荘園領主や地頭の支配に苦しんだり、飢饉によって命を脅かされたりしたため決して楽な生活ではありませんでした。しかし、鎌倉時代の農民たちの努力や知恵のおかげで日本の農業は大きく進歩した、といっても過言ではないのです。

 

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