明智光秀のイメージは本能寺の変の以前と後で大きく異なります。本能寺で首尾よく主君信長を討った鮮やかな手際を見せながら討ち取った後はなんだかぼんやりグズグズとしており、味方も集まらない間に羽柴秀吉に敗れてしまい三日天下に終わったイメージがあるからです。でも、本当に光秀は信長を討った後、急にボンクラになったのでしょうか?
本能寺の変とは?
本能寺の変は1582年6月2日の未明に起こりました。明智光秀は中国地方の毛利輝元を攻めるために亀山城から出雲・伯耆(いずれも現在の島根県)に向かうはずでした。光秀は京都の沓掛で、休息をとります。近くの神社で大吉が出るまでくじを引きました。大河ドラマなどでは光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶシーンがあり、あたかも実際にあったかのように伝えられています。しかし、実際、光秀は「敵は本能寺にあり」と言っていません。
江戸時代の『明智軍記』に書かれた内容で俗説ですが、誤って実際にあったと伝えられたと考えられます。光秀の軍が本能寺を包囲すると、信長を襲います。信長は森蘭丸から明智の軍勢と見受けられるという報告を受けると、是非に及ばずという言葉を残して、本能寺に火を放ち自害しました。
この記録は太田牛一が当時本能寺にいた女中らに話を聞いて、『信長公記』にまとめました。
想定外の山崎の戦い
明智光秀は本能寺の変の後に起こった山崎の戦いで豊臣秀吉に負けました。三日天下といわれています。光秀は本能寺の変の後についてどのようにシミュレーションをしていたのでしょうか。ここでは、明智光秀にとって山崎の戦いの想定外の内容について取り上げます。
明智光秀は本能寺の変で信長を自害に追い込むと、安土城を占領しました。安土城に火を放ち落城したといわれています。光秀は細川忠興と筒井順慶らに味方につくように書状を送りました。細川忠興については娘の玉(後の細川ガラシャ)が嫁いでいることから味方になってくれるだろうという期待があったと考えられます。大和国の筒井順慶についても味方になってくれるだろうと期待していたと考えられます。しかし、細川忠興は父幽斎ともに光秀の軍に従わないことを決めました。筒井順慶らも光秀に賛同しませんでした。賛同しなかった要因として、主君を裏切ったということが心証を悪くしたと考えられます。
細川藤孝
本能寺の変後、ぼんやりしているように見える光秀のイメージは実際には、味方につく筈の大名たちが日和見し急によそよそしくなった事に対する光秀の打つ手無しの焦燥感が産みだしたものなのです。
おまけに光秀が半月以上は掛かると楽観していた毛利攻めの最中の豊臣秀吉は信長の仇を討つとして備中(現在の岡山県)の高松城からわずか2日間で京に引き返しました。この秀吉の引き返しのことを中国大返しと呼んでいます。大河ドラマなどでは、マラソンやトライアスロンのように走りながら給水または食事を摂っているシーンを思い出す人がいると思います。
山崎で秀吉の軍と光秀の軍が衝突します。この戦いのことを山崎の戦いといいます。秀吉による中国大返しと光秀に兵が集まらなかったことにより、山崎の戦いは秀吉の軍が勝利しました。この戦いの場所が天王山であったことから、この天下分け目の戦いのことを「天王山」と呼ぶようになりました。現代でも野球やサッカーの試合で優勝を決める重要な戦いのことを「天王山」という言葉を使うことがあります。
明智光秀三日天下のイメージは光秀が信長を討った後、なーにも考えていないのではなく味方がそっぽを向いた事、そして常識外れの速さで舞い戻った秀吉というイレギュラーで不幸にも演出されたものだったと言えます。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は本能寺の変と山崎の戦いについて取り上げました。山崎の戦いで豊臣秀吉が勝利すると、秀吉は天下統一に向けて動きます。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利家康は江戸幕府を開き、約260年続く長期政権となりました。風雲児信長、天下人秀吉、三百年の太平を築いた徳川家康、この3人に挟まれると僅か三日天下の明智光秀は、なおさらぼんやりイメージが際立ってしまいますね。
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