前原一誠と言えば、不平士族の反乱「萩の乱」のリーダーで、明治新政府に鎮圧されて処刑された人物で、ほとんど評価されていません。この記事では、吉田松陰と前原一誠の関係から始めます。前原は松陰の思想を受け継ぎ、実践したことを取り上げます。
この記事の目次
吉田松陰と前原一誠との関係をみてみよう。
『前原一誠の評価を考える「お前、真面目かー!」』で前原一誠について取り上げています。前原一誠は八十郎と名乗っていましたが、最初から一誠と名乗っていたわけではありません。吉田松陰の言葉「至誠にして働かざる者、未だこれ有らざるなり」という言葉に感動し、一誠と名前を変えたと言われています。
前原は松陰のもとで人に対して優しい政治(「仁政」)を学びました。明治維新後越後判事に任命されると実践します。具体的には年貢の半減や頻繁に氾濫する信濃川の治水を計画しました。しかし、信濃川の治水工事については新政府の了解を得ることができませんでした。信濃川の治水工事だけでなく、徴兵令でも明治政府と対立します。この対立がきっかけで前原は明治政府を去りました。
孟子の思想の1つである「仁政」について考えよう
孟子は紀元前372年~前289年の中国の儒教の思想家です。孟子は人への思いやりである「仁」は人の心であり、倫理的な道理や義務(義)は人の道であると説いています。孟子の仁政では、個人の努力(仁)だけでなく、社会的に評価されて達成されると説いています。吉田松陰は孟子の思想の仁政を引き継いで、松下村塾で仁政を人に優しい政治として塾生に教えています。
前原一誠の義憤、松陰直伝!
明治新政府は士族の特権を廃止し、給与の支給を打ち切るなど改革を行います。明治政府の改革の結果、士族が生活できなくなるなど不平不満を持つ原因となり、反乱を起こす動機となります。『前原一誠の評価を考える「お前、真面目かー!」』によれば、萩ではかつて高杉晋作の呼びかけに応じて参加した「奇兵隊」のほとんどは士族になれず、生活の保障がなくなりました。長州藩の頃から武士で、明治維新で士族になることができた人は給与の支払いを打ち切られ、生活ができなくなりました。
前原一誠は戊辰戦争での戦いが評価され、兵部大輔を務めましたが、徴兵令で木戸孝允らと対立し、明治政府を去りました。理由として「国民皆兵」は民を犠牲にするという理由で反対したと考えられます。前原は吉田松陰の松下村塾で仁政を学びました。士族の生活ができなくなることや国民皆兵で民を犠牲にすることから、明治政府にいると人に優しい政治ができなくなり、吉田松陰の教えに背くことになると考えたのかもしれません。
吉田松陰の叔父、玉木文之進の理由にも前原が関係していた?
武士は明治時代に士族になりましたが、明治政府は給与など士族の特権を奪う政策を行いました。このことは多くの士族の不満となり、士族の反乱へとつながります。不満を持った士族は反乱を起こすために前原一誠や西郷隆盛など人望のある人をリーダーとして担ぎ出しました。前原一誠はリーダーとして担ぎ出され、萩の乱を起こしましたが、わずか1ヶ月も持たないうちに鎮圧されました。前原は反乱鎮圧後に逮捕され、処刑されました。
萩の乱については前原が起こした事件として知られていますが、反乱を起こした不平士族が松下村塾の塾生だったことはほとんど知られていません。玉木文之進は吉田松陰の死後、松下村塾を主宰していました。玉木は息子や塾生が萩の乱に加わったことに責任を感じて、墓前で切腹しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は吉田松陰と前原一誠との関係について取り上げました。前原は戊辰戦争後に越後判事に任命されました。越後判事に任命されると吉田松陰の教えである仁政を実践しました。仁政の事例として、信濃川の治水工事を計画しましたが、明治政府に反対されて計画は実行されませんでした。
前原一誠は萩の乱で反乱を起こした人物としか評価されず、吉田松陰の仁政を実践したことはほとんど知られていません。今後、吉田松陰の教えを引き継いだ塾生に注目したいと思います。
▼こちらもどうぞ
吉田松陰と久坂玄瑞の手紙、「長州白熱教室」君ならどう考える?