徳川家茂と言えば14代将軍で、大老井伊直弼の支持によって将軍となった人物です。正室が皇女・和宮で、公武合体運動の象徴となった人物という印象を受けることがいるかもしれません。安政の大獄によって一橋派を弾圧したことにより徳川家茂は14代将軍になることができました。井伊直弼は血統を根拠にしていたと言われています。この記事では徳川家茂の家系図を中心に取り上げます。
この記事の目次
実は徳川家康の直系男子ではない家茂
徳川家茂の実父は徳川斉順で、12代将軍徳川家慶の異母弟に当たり、13代将軍徳川家定のいとこに当たります。将軍に就任する前、幼少の頃から紀州藩主となり、13歳で将軍になりました。は、徳川家茂は徳川家康の直系男子ではありません。徳川家康の直系男子は7代将軍徳川家継で途絶えています。8代将軍は徳川吉宗で、家康の10男の徳川頼宣の血を引いています。
以降、14代家茂まで紀州徳川家の血を引く者が将軍となります。
紀伊徳川家から将軍になった家茂。「紀州」の血が家茂を将軍にした?
徳川家康は初代江戸幕府の将軍になると、直系が絶えたら跡継ぎは親藩の中で御三家からということで、万が一に備えて用意をしていました。御三家の優先順位は尾張・紀伊・水戸です。結果、15代将軍のうち尾張藩から将軍を輩出することができず、紀伊藩から吉宗と家茂の2人、水戸藩から慶喜の1人を輩出しました。
当時、御三家筆頭の尾張徳川家には徳川宗春という当主がいましたが、なぜ2番手の紀州藩の徳川吉宗が8代将軍になったのでしょうか。6代将軍徳川家宣の正室の天英院が8代将軍に指名したことが決め手になったと考えられます。一方で、尾張徳川家の当主徳川宗春は将軍になることができず、幕府の命令を無視する政策を実行したことにより隠居処分を受けました。
徳川吉宗は8代将軍になり享保の改革を実行します。家康の御三家に倣って御三卿を作りました。御三卿とは清水家・田安家・一橋家の3家です。9代将軍として徳川家重が将軍を継ぐと、残り2人の息子は田安家・一橋家を創設しました。家重の代で清水家が創設されています。その後、10代将軍徳川家治には跡継ぎがいなかったため、一橋家の家斉が11代将軍になりました。14代将軍家茂は11代将軍の家斉の孫に当たり、血統で近いことから将軍になることができました。
家茂と慶喜。2人の将軍候補の中から家茂が勝ち残ったわけとは?
13代将軍徳川家定には病弱であるため跡継ぎがいません。14代将軍の後継者争いが起こります。水戸藩出身の徳川慶喜と紀州の徳川家茂との争いです。井伊直弼が徳川家茂を推す根拠は血筋が本家に近いということです。徳川家茂の実父・徳川斉順は家斉の子で、後に紀州藩に養子に入ります。家茂は紀州藩で生まれ、幼少の頃から9年間将軍になるまで紀州藩主になりました。徳川慶喜が後継者争いでなぜ勝ち残れなかったのか。血筋が遠いからという理由だけではありません。
『幾島vs本寿院勝敗を決めたのは徳川斉昭のスケベだった』によれば、徳川慶喜を推した徳川斉昭が評判を落としていたことが要因としてあげられます。具体的には、大奥には倹約を命令する一方で、自分は女好きで金を使っていたことからダブルスタンダードでした。
和宮と結婚した家茂。この結婚で家茂が望んでいたものとは?
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されるまで、日米修好通商条約と安政の大獄によって朝廷と幕府の関係が悪化していました。幕府は朝廷との関係を改善するために和宮を将軍家茂の正室として迎え入れることを考えます。結果、公武合体で朝廷と幕府との関係改善につながらず、孝明天皇の崩御により尊王攘夷派は倒幕に向かいます。当初、この結婚は政略結婚と思われていましたが、意外なことに和宮と家茂の関係が良好だったという記録が残っています。和宮との結婚生活は家茂が病死したことにより4年で終わりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は13代将軍徳川家定の後継者問題を徳川家茂の家系図の視点から見ました。家茂が将軍になったときの年齢は15歳で、21歳のときに病気で死亡したことから実績があまりありません。紀州藩時代と将軍としての家茂の政治面での実績に注目したいと思います。
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