今回は明治時代の民主化運動である自由民権運動について取り上げます。政府が民主化運動を制限する法律を制定したことにより自由民権運動は弾圧されましたが、帝国議会の開設と憲法の制定を実現するなど成果を出しています。この記事では、自由民権運動を通して帝国議会の開設と憲法制定までの過程を取り上げます。
自由民権運動とは?
自由民権運動は1870年代から80年代にかけて、政府に対して民主的改革を要求した政治運動です。自由民権運動を通して薩長による藩閥政治の打破と国会開設を要求しました。自由民権運動に参加したのは明治六年の政変で下野した土佐藩出身の板垣退助と後藤象二郎ら征韓論者です。板垣退助らは政党を結成して言論で明治政府に対して反論をしました。
一方で、下野した征韓論者の中で、西郷隆盛や江藤新平らは不平士族の反乱に参加し、武力で明治政府に抵抗しました。西郷隆盛の西南戦争で不平士族による反乱は終わり、言論による運動に完全に移行します。
自由民権運動は政府の弾圧・懐柔と内部分裂を繰り返しましたが、大同団結運動を最後に衰退しました。大同団結運動とは1886年から89年にかけて、反政府諸派が反政府運動統一と三大事件建白運動に呼応する形で起こった運動です。大同団結運動は運動に加わっていた後藤象二郎が黒田清隆内閣に入閣したことにより分裂・崩壊しました。
政府はなぜ自由民権運動を弾圧したのか
自由民権運動を弾圧した背景には明治六年の政変で西郷隆盛ら征韓論者が下野したことで不平士族が溜まっていたと考えられます。不平士族による反乱だけでなく、言論や集会による運動も盛んになると、明治政府が倒される恐れがあります。明治政府は言論に対する弾圧として、新聞紙条例・讒謗律・集会条例・保安条例を制定しました。民主化運動で言論・出版・集会の自由を制限することで乗り切ろうとしました。
自由民権運動の成果
明治政府は言論・出版・集会の自由を制限する法律を出してきましたが、法律だけで抑えることができなくなりました。北海道開拓使官有物払下げ事件が起こりました。この事件とは、黒田清隆が薩摩出身の政商五代友厚に官有物を安く払い下げた事件です。この事件に対して政府を批判する声明が出され、法律で抑えることができなくなりました。
また、自由民権運動では国会の開設を求める動きも活発になりました。1880年、国会期成同盟が結成され、全国的な団体となりました。明治政府はこの民主化運動を受けて10年後に国会を開設することを約束しました。この約束のことを国会開設の勅諭といいます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治の民主化運動である自由民権運動について取り上げました。自由民権運動は政府から弾圧を受けたり、運動のメンバーが入閣することで衰退したりすることがありました。弾圧を受けてきましたが、この記事では自由民権運動の成果として国会の開設と憲法の制定を取り上げました。
明治政府は言論によって倒れるのを恐れたことから民主化運動を制限する法律を出したことを、この記事で指摘しました。言論によって政権が倒れた事例として、中東で2010年から2011年にかけて起こった民主化運動「アラブの春」を思い出す人がいるかもしれません。
アラブの春で、チュニジア・エジプト・リビアなど長期政権が倒れたことで有名です。明治政府が対応を間違えればアラブの春のようになっていたかもしれません。最後に、明治の自由民権運動の後、大正時代に2回民主化運動がありました。大正時代の民主化運動のことを大正デモクラシーといいます。第二次大正デモクラシーでは財産で有権者の資格が制限されていましたが普通選挙制度の導入に成功しました。今後、明治の自由民権運動など戦前の民主化運動について注目したいと思います。
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