今回は新撰組の隊士で井上源三郎について取り上げます。大河ドラマなどでは血気盛んな隊士が多い新選組の中で、温厚な人柄として演出されています。井上源三郎について生い立ちから最期までを取り上げます。
井上源三郎とは?
1829年、武蔵国日野(現在の東京都日野市)に生まれました。1862年、近藤勇と土方歳三らがいた壬生浪士組に参加します。芹沢鴨が暗殺された後、井上は副長助勤に就任にしました。1864年の池田屋事件では8人の浪士を捕縛するなど活躍を見せました。1865年に六番隊組長に任命されました。
1867年、第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した大政奉還を行いました。大政奉還後、薩長のクーデターにより徳川慶喜は政権を追われ、そのことに反発する形で薩長ら明治新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まりました。この戦いを戊辰戦争といいます。1868年正月、戊辰戦争の最初の戦争は鳥羽伏見の戦いでした。旧幕府軍は徳川慶喜が夜中に密かに江戸へ脱出したことにより敗退しました。新選組も鳥羽伏見の戦いに加わりました。新選組は明治新政府軍との戦いで不利になると淀まで退却しました。淀で戦っていたとき、井上源三郎は腹部に銃弾を受けて戦死しました。
この戦いで、井上源三郎の甥の泰助がいました。源三郎の首を持ち帰ろうとしましたが、あまりに重かったため戦場近くの寺院に首と刀を埋葬しました。埋葬された寺院は欣浄寺であるといわれています。
井上源三郎の剣術の腕
井上源三郎の剣術の腕について目立った逸話はありません。沖田総司や永倉新八と比べると目立った存在ではないという印象を受けます。しかし、実際の井上源三郎の剣術の腕について池田屋事件で浪士の捕縛をするなどの活躍をしていることから剣術の達人であると考えられます。
沖田総司や永倉新八らと比べて、井上源三郎の剣術の腕が目立たない要因として免許皆伝までに時間がかかったことが挙げられます。1847年頃に天然理心流の道場で近藤勇と親交を深めました。ともに剣術の稽古に励んだ土方歳三らは井上よりも先に免許皆伝となりましたが、井上は時間がかかりました。免許皆伝まで10年かかっています。この点で、他の新撰組の隊士と比べるとあまり目立たないのかもしれません。
井上源三郎の人柄
新選組といえば、ほとんどの読者が血気盛んな隊士がいるという印象を受けるかもしれませんが、井上源三郎は組織内で数少ない人当たりの良い組長でした。隊士から「源さん」と呼ばれていたというエピソードが有名です。2004年の大河ドラマ『新選組!』でも源さんと呼ばれていたのを思い出す人がいるかもしれません。新選組内では目立った活躍をしていないという印象を受けるかもしれませんが、土方歳三が江戸で隊士を募集する際、土方に同行するなど裏方として活躍したといわれています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は新選組六番隊組長の井上源三郎について取り上げました。井上源三郎は新選組の中で数少ない温厚な人柄であることが分かりました。これまでのドラマを見ていて、血気盛んな隊士が多い中にいると、井上源三郎が「源さん」と呼ばれている姿はかえって目立つかもしれません。新選組のドラマや映画を見るとき、それぞれの隊士の人柄にも注目したいと思います。
最後に、井上源三郎の墓について取り上げます。欣浄寺は甥の井上泰助が鳥羽伏見の戦いで戦死した源三郎の首と刀を埋葬された寺院であるといわれています。欣浄寺は京阪電車の墨染駅から徒歩1分の場所にあります。井上源三郎の墓は故郷の東京都日野市の宝泉寺にもあります。宝泉寺は井上源三郎の菩提寺で、奥まった箇所に墓があります。JR中央本線日野駅より徒歩2分の場所にあります。
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