今回は西郷隆盛と徳川慶喜との関係に注目します。西郷は島津斉彬のもとで14代将軍に徳川慶喜を推すように工作していました。14代将軍後継者問題が起こっていた頃に西郷と徳川慶喜は会っていたと考えられます。この記事では、最初に禁門の変の頃の関係から取り上げます。次に、西郷が幕府と戦うようになってからの2人の関係に注目します。最後に、明治維新後の2人について取り上げます。
禁門の変から長州征伐まで
1864年の禁門の変で、西郷隆盛は幕府側について徳川慶喜とともに長州藩と戦いました。禁門の変を理由に幕府は朝廷から長州征伐の勅命を受けて、長州藩を攻めます。この時、西郷隆盛は単独で長州藩に乗り込み、説得しました。長州藩は恭順の態度をとったことで長州征伐を避けることができました。この長州征伐を第一次長州征伐と言います。
1865年になると、高杉晋作らが長州藩の実権を握ります。高杉ら長州藩が倒幕の動きを強めたため、幕府が長州征伐の勅許を得て再び長州藩を攻めます。この戦争を第二次長州征伐と言います。第二次長州征伐で幕府軍は敗戦を重ねました、14代将軍徳川家茂が大阪城で病死したことによりこの戦争は停戦状態になりました。この第二次長州征伐で、薩摩藩は兵を出していません。幕府が命令を出しているにもかかわらず、薩摩藩は兵を出さなかったため、薩摩藩と幕府は対立します。
大政奉還から戊辰戦争まで
15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を返上する大政奉還を行いました。大政奉還の狙いは直前に出された討幕の密勅の大義名分をなくすために政権を返上したと言われています。大政奉還後、1867年に王政復古の大号令が出されます。この大号令により、天皇中心の政府樹立が宣言されました。また、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、官職として総裁・議定・参与の三職の設置が決まりました。
王政復古の大号令が出された後も徳川慶喜には朝廷内での官職がありましたが、小御所会議(1867年12月)において、徳川慶喜の辞官納地が決まりました。辞官納地に反発した旧幕府軍が挙兵し、戦争に突入します。この旧幕府軍と明治新政府軍による一連の戦争のことを戊辰戦争と言います。1868年1月の鳥羽伏見の戦いから始まり、1869年5月の五稜郭の戦いまで続きます。
鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は江戸城に逃亡し、恭順の態度をとります。一方で、西郷隆盛は新政府軍として勝海舟と江戸城の無血開城の交渉を担当しました。
明治維新後の西郷隆盛と徳川慶喜
戊辰戦争では西郷隆盛は新政府軍として戦いを優位に進めますが、徳川慶喜は恭順の態度をとり、謹慎生活を送ります。この時点で2人の立場は歴然としています。明治維新後になると2人の立場は逆転します。徳川慶喜は謹慎生活が解かれ、静岡で隠居生活を送ります。静岡での隠居生活は趣味三昧だったと言われています。その後、静岡から東京に移動して貴族院の議員になったこともあります。
一方で、西郷隆盛は明治六年の政変で政府を去り、不平士族による最後の反乱である西南戦争を起こします。西南戦争で西郷は賊軍の将となりますが、恩赦によって賊軍の将でなくなりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は西郷隆盛と徳川慶喜との関係について取り上げました。西郷隆盛は下級武士で、徳川慶喜は将軍という立場が異なりますが、2人とも国賊となりましたが、恩赦で国賊でなくなったことが分かりました。西郷隆盛と徳川慶喜の2人は新政府軍と幕府という全く立場が異なるため共通点がないと思われがちですが、意外な形で共通点があることが分かります。今回は政治的出来事を中心に共通点を探しましたが、西郷隆盛と徳川慶喜の趣味における共通点を探してみたいと思います。
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