明智光秀が起こした本能寺の変について、『明智光秀について(3)―本能寺の変を決意―』では、いくつか取り上げた動機の中から、丹波国攻めで人質として差し出していた母親が波多野秀治に殺されたことを挙げました。
今回は本能寺の変のきっかけとなったといわれている明智光秀の母について取り上げます。後半では、丹波国の難攻不落の八上城と波多野秀治について取り上げます。
明智光秀の母とは?
明智光秀の母について、本能寺の変の動機になったという有力な説となっていますが、史料において記録が残されていません。母親は若狭武田氏の出身で、名前はお牧と伝えられていますが、詳細についてはほとんど記録がないため不明な点が多いです。波多野秀治の人質として差し出したという話については記録がないため、事実かどうか分かりません。
難攻不落の八上城とは?
波多野氏は応仁の乱にて戦功をあげて多紀郡郡代となった頃から丹波国八上城の歴史が始まりました。1575年に織田信長が明智光秀に丹波国攻めを命令します。この頃から八上城攻めが開始されました。明智光秀が攻め始めた頃、毛利輝元らの支援がありましたが、1579年に落城しました。八上城落城により波多野氏は滅亡しました。
江戸時代になると、1608年に松平康重が丹波国に篠山城を築城したため八上城は廃城となりました。八上城は1609年に廃城となりましたが、数多くの遺構が当時のまま残されていたことが評価され、国指定の史跡として指定されています。
八上城城主・波多野秀治とは?
波多野秀治は波多野晴通の子として生まれました。波多野氏は代々三好長慶に仕えていました。三好長慶の死後、波多野秀治は八上城を奪還して三好から独立を果たします。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に従いました。1575年に明智光秀の軍勢に加わって丹波国の信長に抵抗する豪族を討伐しました。しかし、突如として叛旗を翻しました。信長は波多野秀治の裏切りに対して光秀に丹波国攻めを命じました。これに対して、波多野秀治は八上城に籠城し、抵抗を続けました。
丹波の入り組んだ山岳地帯を生かして、信長の軍勢による攻撃に耐えました。しかし、長期の籠城戦で兵糧がなくなったことや味方の丹後・但馬諸豪族が信長の軍勢に攻撃されたことによって苦戦を強いられました。また、光秀の調略で信長に寝返った豪族も出るなど窮地に陥りました。波多野秀治は1579年、光秀に降伏して、丹波国は平定されました。その後、波多野秀治は弟の秀尚と共に安土城に送られ、処刑されました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は本能寺の変の引き金になった明智光秀の母と織田信長への抵抗を続けた波多野秀治について取り上げました。明智光秀が本能寺の変を起こした動機として、人質として差し出していた母親が殺されたことが有力だといわれています。しかし、この記録はほとんどの史料では見られないため実際にあったのかどうか疑問視されています。大河ドラマ『麒麟がくる』の放送で、今後の明智光秀に関する研究で進展がないか注目したいと思います。
波多野秀治の家臣に赤井直正がいます。八上城が落城すると、赤井直正の弟の幸家が直正の嫡男・直義を守って落ち延びました。赤井直正の末裔として元・プロボクサーで現在タレントとして活動している赤井英和がいます。
赤井英和の先祖のことについては既にNHKのファミリーヒストリーで取り上げられていますが、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送によって明智光秀の研究とともに波多野秀治とその家臣に関する研究が進展するかもしれません。今後、何か新しい発見がされることが期待されます。
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