「敵に塩を送る」というエピソードで有名な、武田信玄と上杉謙信。両者がぶつかった、川中島の戦いは今でも日本史ファンの心を惹きつけます。
筆者は、甲府(現在の山梨県)を訪れたとき、信玄の顔が大きくプリントされた箱に入った信玄餅をおみやげに買って帰りました。家に帰ってから食べた、その信玄餅のおいしさといったら!信玄餅は、お菓子メーカーが勝手に信玄の名前を付けたのではなく、信玄がこの餅を食べたときに大絶賛したことから命名された、という説もあるのです。
武田信玄、上杉謙信といえば「川中島の戦い」が有名!
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは、昔から人々の心を惹きつけてきましたが、それは裏を返せば、それほど川中島の戦いには脚色が加えられ、フィクションも数多く登場したのです。豪快なイメージのある信玄、そして義を重んじる謙信というように、正反対のキャラクターであるふたりが衝突するのは、
いつの時代も人々の想像を掻き立てるのでしょう。「川中島の戦い」を題材にした歌舞伎や小説が作られていきました。実際、江戸時代には川中島の戦いを題材にした歌舞伎が大人気だったようです。
川中島の戦いが起こったきっかけは?
川中島の戦いが起こったとき、13代将軍足利義輝が三好長慶との戦いで敗れて亡命するなど、幕府の権威は完全に失墜していました。群雄割拠の戦国時代がまさに幕を開け、駿河の今川氏や相模の北条氏などの武将が、各地で着々と実力をつけてきていたのです。甲斐を治める武田氏も、そのような一族のひとつでした。
優れた戦いのセンスを持っていた武田信虎の息子、信玄は領土拡大を目指し、西の信濃へと侵攻を始めました。信濃には既に権力を持っていた豪族がいましたが、信玄は次々討ち倒し、領土を拡げていったのです。そこで、信玄の領土拡大の前に立ちはだかったのが、越後の虎という異名を持つ上杉謙信でした。
なかなか決着がつかなかった川中島の戦い
1560年の桶狭間の戦いで信玄の同盟相手だった今川義元が戦死し、駿河領内は混乱に陥っていました。信玄は、「謙信によって小田原城に追い詰められていた北条氏がこのまま倒されたら、甲斐は上杉家の領土に囲まれてしまうことなる」と考えました。
そこで信玄は状況打破のため、川中島に築いた海津城に本陣を置き、謙信の本拠地である越後を目指して侵攻を開始します。このとき信玄は自ら率いる本隊と別働隊で上杉軍を挟み撃ちにする作戦を実行しようとしましたが、謙信はその作戦を見抜いていました。賢い謙信は、信玄の別働隊が動くよりも前に自軍を下山させ、侵攻を開始しました。
この謙信の侵攻に気付き動揺した武田軍は劣勢を強いられることになりますが、別隊の到着でなんとか持ち直し、上杉軍を退けることに成功したのです。しかし、その被害は甚大なものでした。その後、「味方が必要である」と考えた信玄は陸奥の蘆名盛氏と手を組み、蘆名軍が越後に攻め入っている間に飛騨の制圧に向かったのでした。謙信は蘆名氏を倒し、武田軍を討つために再び川中島に侵攻しました。ここで信玄と謙信は対峙しますが、この戦いで直接二人が衝突することはなかったのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
名将である信玄と謙信がぶつかり合った川中島の戦いは、結局勝ち負けははっきりとは決まりませんでした。しかし、信玄と謙信はどちらも「自分の軍が勝った」と思っていたようです。信玄と謙信、それぞれ大河ドラマでも主演になるくらいの人気がある武将です。
両者とも、魅力溢れる人物ですが、皆さんは「武田信玄」と「上杉謙信」、どちらのほうが好きですか?
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