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孔子の知られざる幼少期と青年期![その驚くべき素顔]

2024年3月18日


孔子

 

もはや孔子(こうし)の名を知らないのは小学生以下のお子ちゃまくらいのものでしょうが、孔子がどんな半生を送ったかについては意外と知らない人が多いのではないでしょうか?

 

特に、彼がどのような家庭に生まれ、どのような子供時代や青春時代を送ったのかを知る人はほとんどいないでしょう。というわけで今回は、孔子の幼少期から青年期にスポットをあてて彼がなぜ儒教という立派な思想を打ち立てて聖人となれたのか、その秘密に迫っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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パパとママの年齢差には加藤茶もビックリ!

kawauso

 

孔子が春秋時代の()の国に生まれたことを知る人は少なくないでしょう。しかし、彼のパパとママがどんな人なのかまで知っているという人はなかなかいないと思います。

 

 

西遊記巻物 書物_書類

 

彼のパパやママについては、司馬遷(しばせん)『史記』などの書物にその記述が散見されます。パパの名前は叔梁紇(しゅくりょうこつ)と言って、魯でも有名な武人だったそう。そして、ママの名前は顔徴在(がんちょうざい)。身分はそれほど高くない巫女だったようです。しかしこの2人、とんでもなく年が離れていたと言われています。孔子が生まれたとき、パパは70歳を超えていたのに対し、ママは16歳もしくは18歳!

 

パパについては66歳との説もありますが、それにしたって親と子どころか孫と子くらい離れているこの年齢差には加藤茶(かとうちゃ)もビックリしてしまうでしょうね。そしてさらに、この2人、どうやら正式に結婚していなかった模様…。2人に一体何があったのかはわかりませんが、孔子も幼少期はかなり苦労したのではないでしょうか。

 

 

 

葬式ごっこという不気味な遊びを好む

葬式ごっこという不気味な遊びを好む

 

パパと呼ぶには年をとりすぎていた叔梁紇は、やっぱりと言うべきか、孔子が3歳になったときに亡くなってしまいます。その後は女手一つで孔子を育てた若き母・顔徴在。現代も母一人で子を養うのは大変ですが、その当時は更に大変だったことでしょう。

 

孔子はこの苦労する母の姿を見て育ったため、「(こう)」という考えを特に大切にしたのかもしれません。そんな彼は巫女(みこ)である母の影響を色濃く受けたのか、葬式ごっこなる不気味な遊びに興じていたのだそう…。実は、後に「亜聖(あせい)」と称される孔子の弟子・孟子(もうし)は墓地の近くに住んだ際に葬式ごっこをしていたのを母に目撃され、「墓の近くに住んでいるから我が子が…!」とビビった母によって引っ越しさせられています。

 

孟子のママは許してくれなかったようですが、巫女である孔子のママ・顔徴在は「私の真似ばかりして…」と微笑ましく思っていたのかもしれません。しかし、そんな孔子のママも孔子が17歳のときに亡くなってしまいます。たったの17歳で天涯孤独となってしまった孔子でしたが、独学で礼を学び続けたと言われています。

 

 

立つよりもまず結婚

 

孔子のパパは70歳前後で孔子という子をもうけましたが、孔子は彼を反面教師にでもしたのか、わずか19歳で結婚して20歳で第一子をもうけています。

 

でも…あれ?ちょっとおかしくないですか?孔子は自分の半生を振り返って、次のような言葉を残していますよね。

 

吾十有五にして学に志す三十にして立つ

 

まだ立ってないのに、先に結婚しちゃってるじゃないですか!実は、孔子がはじめて魯に仕官したのは28歳。無職なのに家庭を持っちゃっています。

 

まぁ、「三十にして立つ」というのは学問を十分に修めて弟子をとれるようになったということなのですが、それにしたってやっぱり無職だったわけで…。しかし、天涯孤独だった孔子を可哀想に思った誰かが孔子に家族をつくってやりたくてはやく結婚させたと考えることもできるかもしれません。孔子は一家の主としてというよりも、入り婿のような形で妻の実家にお世話になっていたのかもしれませんね。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks
父には早くに死なれ、死者の魂を鎮める母の姿だけを見て育った孔子が特に礼に興味を抱いたというのは十分頷けることでしょう。礼に深い思い入れがあった孔子は、魯の国で礼がまともに執り行われていないことを嘆き、周代の礼を復活させて世を導いてくれる理想の主君を求めて旅をするようになります。

 

早くに亡くなってしまったとはいえど、彼を偉大な思想家に育てたのは間違いなくその母・顔徴在だったのです。

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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