孔子・孟子・筍子?儒教(儒家)ってどんな思想?

2015年7月13日


 

儒教

 

儒教は春秋戦国時代に孔子によって興された思想・哲学の一派であり、

同時代に数多く存在した諸子百家と呼ばれる思想家(潮流)の代表的な存在でもあります。

 

始祖である孔子以降、儒教思想家(儒家)は数多く輩出されましたが、

ここでは特に諸子百家の時代に活躍した代表的な三人の思想家を紹介しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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儒教の始祖 孔子ってどんな人?

儒教の始祖 孔子ってどんな人?

 

孔子(こうし)は紀元前552年(551年という説もあり)に

魯(ろ・三国時代の青州・徐州の辺り)という国に生まれました。

父親は当時すでに70歳を超える武官、母親の出自ははっきりとしていませんが、

身分の低い16歳の巫女であったとされています。

 

孔子が魯に仕官したのは28歳の頃とされていますが、

幼い頃に両親を亡くしている孔子がどこで学問を修めたかについてはよく解っていません。

一説には道教(道家)の始祖である老子に師事したとも言われています。

 

孔子の弟子の子貢は「師匠(孔子)は、

特定の師について学問を学ばれたのではない」という旨の言葉を残しています。

 

その後孔子は仕えた君主が国外追放されるのに同行して亡命する(後に帰国)など、

波乱の人生を送りますが、

52歳の時に魯と和議の為に訪れていた斉の国の特使が、

王の暗殺を目論んでいることを見抜きます。

 

その功績を讃えられ、最高裁判官と外交官を兼ねた地位を与えられます。

 

 

 



孔子には3000人の弟子がいた

孔子には3000人の弟子がいた

 

しかしその3年後、孔子は弟子を引き連れ、諸国を巡る旅に出てしまいます。

一説には国政に絶望した為とも言われていますが、真相は定かではありません。

13年間の放浪の末、彼は帰国して古典文献の整理の仕事を行いますが、

当時の王との折り合いは悪く、497年、74歳でこの世を去りました。

 

孔子には3000人の弟子がいたとされています。

その弟子の中でも特に才能の優れた弟子約70名は『七十子』と呼ばれています。

 

孔門十哲

 

論語(ろんご)って何?

論語(ろんご)って何?

 

孔子の残した書物というと『論語(ろんご)』を思い出される方も多いと思いますが、

実は孔子自身は自ら書を書き残してはおらず、

論語は弟子たちとの問答を後に弟子の手によってまとめられたものです。

 

孟子って誰?性善説を説いた見栄っ張り?

 

孔子とならんで儒教で重要とされるのが孟子(もうし)です。

孟子は本名を孟軻(もうか)と言い、

孔子の没後125年後の紀元前372年に

鄒(孔子と同じく三国時代の青州、徐州の辺り)に生まれたとされています。

 

幼少期の孟子とその母親には有名な逸話が存在します。

孟子が生まれた頃、彼とその母親は墓場の近くに住んでいました。

毎日葬式を見て育った孟子は葬式ごっこをして遊ぶようになります。

教育上良くないと思った母親は彼を連れて引っ越しますが、そこは市場の近くでした。

 

商人ごっこを始めた孟子を見た母親は、今度は学問所の近くに引っ越しました。

やがて孟子は学問を志すようになります。

 

この『孟母三遷』の故事は史実ではないとされていますが、

現代でも子どもの教育に環境が重要であることの引き合いとして、良く喩え話にされますね。

 

孟子には見栄っ張りでプライドの高い一面があったようです。

彼は自分を諸侯の師匠であり賓客であると考え、諸侯と同等の人間であると考えていました。

 

彼が旅をする時は数十台もの車と数百名の従者を引き連れて行進したと言います。

 

孟子のプライドの高さは諸侯の王に対しても発揮されました。

彼は王宮に呼び出されて参内するを拒み、用があるなら王の方から自分の元に来いと言い、

王の地位を軽んじるようなことを平気で王の前で発言するなど、

歯に衣着せない言動を通しました。

結局、そのような性格が仇となったのか、

彼は諸侯から重用されることなく生涯を終えています。

 

性善説(せいぜんせつ)って何?

劉備

 

孟子の唱えた思想のうち、もっとも有名なのが『性善説』です。

孟子によれば人間の本質である四端(仁・義・礼・智)は

誰もが生まれながらに持っているものだと言います。

 

しかし、それは努力して伸ばしていかない限り、人間は獣に等しいとも唱え、

努力して徳を身につけなければならないとしています。

 

筍子って誰?性悪説を唱えた、荀彧・荀攸の先祖

 

筍子(じゅんし)は紀元前4世紀末頃、

趙(三国時代の并州から冀州にかけての辺り)の国の出身とされています。

彼は50歳を過ぎてから斉の国で学長職を任じられましたが、その後讒言のために国を去り、

その後楚に用いられ、職を辞した後もその地に留まったと言います。

 

性悪説(せいあくせつ)って何?

劉備

 

筍子の思想の根幹にあるのは『性悪説』です。

 

彼は人間の本性を際限ない欲望であると考え、

そのままでは無限の欲望に駆られ、奪い合い争い合うしかないとしました。

そのために、人間は後天的な努力を重ねて善へと向かう必要があると説いたのです。

 

しばしば、筍子の性悪説は孟子の性善説と対極的な考え方であるとされますが、

実は孟子も筍子も、人間が努力なしでは善を維持できないという意味では

同じことを説いたということも可能です。

 

人間の本質にかかわらず、後天的な徳が重要とする点では、

孟子と筍子は非常に親しい思想を持っていたといえるかもしれません。

 

三国時代に曹操の家臣として活躍した荀彧や荀攸は、筍子の子孫にあたるとされています。

 

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