武田信玄は、自らが優れた戦術を立てることができる戦国武将であっただけでなく、その善政によって、甲斐の国の領民たちの支持を得ていました。では、そのような信玄はいったいどのような経済政策を行なっていたのでしょうか?
例えば、北条早雲による税負担の軽減や、織田信長による楽市楽座など、戦国武将の経済政策はそれぞれの個性が出ることが多いです。「甲斐の虎」と称された信玄は、いったいどのような経済政策を行ったのでしょうか?
実は武田信玄は経済面で大きなハンデを背負っていた!?
信玄が治めていた甲斐の国は、豊かな自然に恵まれていましたが、山間部にありまさに内陸の孤島でした。それは越後の上杉家や尾張の織田家と比べると、かなり大きい経済的なハンデとなっていました。甲斐の国は、海に面していないので、生活に必要な物資は他国からの輸入に依存しているところが多々あったのです。そのため、周囲の国と敵対した場合、物資の流通を簡単に止められてしまう可能性が常にありました。
戦国時代、経済封鎖はよく行われていた
当時、交戦中の相手の国力を弱めるために、経済的封鎖をよく行われていました。戦国大名が、自分の国から敵国への物資を遮断するのです。特に、両国の境界の関所では、厳しくチェックされていたため、勝手に物品を持ち込んだりすることは非常に難しかったようです。現在でも、戦争において経済封鎖というのは行われることがあります。敵国に大きなダメージを与えることができる作戦として、はるか昔から現在まで残り続けているのです。
ひとつ、誤解を招かないようにしておきたいのは、「甲斐の国を治める信玄が決して貧乏だったというわけではない」ということです。甲斐の国にも、豊かな自然物資はたくさんありました。しかし、山間部にあるため、隣国から輸入に頼らざるを得なかった物資もあったのです。例えば、塩です。今みたいに交通手段が発展しているわけではないので、山間部の甲斐の国では、塩を手に入れるのがとても難しかったのです。実際、遠江の今川氏と相模の北条氏から信玄が、経済封鎖をされて塩不足で困りきったということがあったのです。
このとき、長年ライバル関係にあった上杉謙信が武田信玄に塩を送ってそのピンチを助けたというエピソードが、「敵に塩を送る」ということわざを生んだのです。
信玄は貨幣経済の発展に力を入れていた!
甲斐の国は、経済封鎖に弱いというデメリットはありましたが、他の国には敵わないアドバンテージがありました。それは、地理的条件から、金鉱脈を豊富に持っていたということです。当時、甲斐の国は日本有数の金保有国だったのです。
信玄は、甲斐の国の貨幣制度を整備して、国内で通用する金貨を鋳造しました。これは甲州金と呼ばれています。甲州金は、江戸時代の貨幣単位のモデルにもなりました。また、「金に糸目はつけない」という慣用句は、実はこの甲州金の単位から発生した言葉なのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
「敵に塩を送る」も「金に糸目はつけない」も、現在でも比較的よく使われていることわざ・慣用句ですが、どちらも信玄にまつわるエピソードから来ていたのですね。信玄が治める甲斐の国は、経済封鎖に弱いというデメリットがありましたが、信玄はそこにめげることなく、豊富な金を用いた貨幣の鋳造という、他国には真似のできない経済政策で自国の発展に尽くしました。信玄のこのような発想は、現在の私たちにとっても参考になることもあるのではないでしょうか?知れば知るほど、信玄は戦術に優れていた武将であったというだけでなく、政治家としても有能であったということが思い知らされます。
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