漢文にしても歴史にしても思想にしても、中国にまつわることを勉強しようと思ったら誰もがその名を知ることになるのが孔子ですよね。孔子は儒教の祖として知る人ぞ知る存在です。彼にはたくさんの弟子がいたのですが、その中でも愛すべき10人の弟子たちがいました。
彼らは「孔門十哲」と称され、儒教を信奉する人々に崇められました。今回は、そんな「孔門十哲」にも数えられる孔子の最愛の弟子・顔回について紹介します。
あの毒舌家・孔子も両手放しでほめちぎった
孔子語録ともいえる『論語』を紐解いていくと、「孔子って結構毒舌だったんだ…」と思わされることが多々あります。全体的に皮肉っぽい言い回しが多く、弟子に対しても容赦がありません。そんな孔子も顔回だけは両手放しでほめちぎりまくっています。
孔子が顔回と話してみると顔回の頭の回転の速さに驚かされるばかり。まさに「一を聞いて十を知る」を体現するかのような彼の頭脳に驚嘆していたと言います。しかし、やっぱり皮肉屋な孔子。最初は彼の物分かりの良さを訝しんでいたらしく、「顔回は私と1日中言葉を交わしてもひたすら肯定し続けるから、ちょっとおつむが弱い子なのかな?と思った」と吐露しています(『論語』為政篇)。しかし、首振り人形のような顔回が孔子と話し終わった後に随分満たされた様子でくつろいでいる様子を見るとどうやら本当に自分の言葉をよく理解しているようだと孔子は感心したそうです。
これぞ清貧!ストイックすぎる仁徳者
顔回は生涯どこかの国に仕えるようなこともなく、小汚い路地裏で必要最低限の食事をとって暮らしていました。普通の人なら耐えられない浮浪者同然の生活をしていながらそれを不幸とも思わず、むしろ楽しんでいるかのようにさえ見える彼の暮らしぶりを見て、孔子は「これこそが清貧だ…!」と感動(『論語』雍也篇)。
また、顔回は同じく「孔門十哲」に数えられる子路と一緒にいたときに孔子から「お前たちがどのような人になりたいかを聞かせておくれ」と尋ねられた際、子路が「私が大切にしている車や馬、着物やコートを友だちに貸してそれらの物が傷つけられてしまってもウジウジと気にしないようになりたい」と答えたのに対し、顔回は「善い行いをしたからといってそれをむやみやたらに自慢せず、人が自分のために辛い思いをすることのないようにありたいです」と答えました(『論語』公冶長篇)。
両者とも他人と共に生きていく上で大切な「仁」について述べているのですが、子路は友人との関係性の中での「仁」について述べているのに対し、顔回は友人に限らず世間一般に生きる人との関係の中での「仁」を述べています。顔回は人を友人・他人と区別することなく、その全てにおもいやりを持って接したいと考えていたのでしょう。そんな清貧を貫く仁徳者・顔回のストイックな姿勢が後に老荘思想を生み出す元となったとも言われています。
あまりに早すぎる死に孔子も絶望
孔子からは何かあれば褒めちぎられ、他の高名な弟子たちからも一目置かれていた顔回でしたが、あまりにも早くこの世を去ってしまいました。『論語』ではその死を悼む孔子の悲痛な叫びや慟哭の様子が多く描かれています。その中でも強烈なインパクトを与えるのがこの言葉。
「噫天喪予、天喪予!(あぁ、天予れを喪ぼせり、天予れを喪ぼせり!)」(『論語』先進篇)
顔回を失ったことで自分の命運さえ、いえ、仁徳の道の命運さえ尽きてしまったと感じたのでしょう。そして、取り乱して声を上げて泣きじゃくる様はいつも冷静な孔子しか知らない弟子たちを驚かせたと言います。孔子が顔回にどれほど期待をかけていたかが窺えますね。孔子はその後も度々我が子のようにかわいがっていた顔回に思いをはせ、「顔回ほど学問を好んだ者はいなかった…」などと漏らしていたようです。
三国志ライターchopsticksの独り言
故人というのは美化されがちですが、孔子の顔回への想いは思い出補正によるものなどではなく、心から彼の仁徳を愛したが故にあふれ出たものだったのでしょう。
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