春秋戦国時代、諸子百家と呼ばれるさまざまな思想が生まれましたが、
その中でも特に重要な思想と言えば、儒教(儒家)でしょう。
儒教は中国のみならず、東アジア全域に多大な影響を与え、創始から2000年以上経った現代にも、その影響は続いています。
日本にも伝来し、後の学問にも大きな影響を与えています。
はたして儒教とは、一体どんな教えなのでしょうか?
戦乱が生み出した儒教
儒教の始祖である孔丘=孔子(「子」は尊称で、「先生」の意味)が生まれたのは紀元前552年、
その頃の中国は春秋時代と呼ばれる時代の中にありました。
春秋時代と、それに続く戦国時代は数多の列強が覇を競って戦った戦乱の時代でした。
諸侯は武力によってその力を誇る「覇道」に従い、
実力ある者が目上の者を蹴落として成り上がる実力主義が横行していました。
春秋戦国時代以前、周という国が覇権を握った時代には、身分制度に基づいて秩序だった社会が営まれていました。
しかし、その周の勢力が衰えて春秋戦国の時代になると、その時代の秩序はどんどんと失われていったのです。
そんな時代にあって、孔子は周の時代の古き良き社会の復活を理想とし、身分制度による秩序と、支配者が徳を持って社会を支配する仁道政治を掲げました。
儒教は長く続いた戦乱の時代に倦んだ人々が、戦乱によって乱れた社会秩序の復活を望んだことで生まれた教えといえるかもしれません。
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五常によって五倫を維持する?
儒教の教えの基本に『五常』と呼ばれる5つの徳性があります。
仁:人を思いやること
義:私利私欲に囚われずに、己のなすべきことをなすこと
礼:仁を具体的な行動として体現すること。後には特に人間の上下関係で守るべきこと
智:学問に励むこと
信:ウソをつかないこと、約束を守ること、誠実であること
この五常を守り広めることで、五倫(個人と他者や社会との関係。父と子、君臣、夫婦、長幼、友情)と呼ばれる関係性を守り維持すること。
これが儒教の目的とするところでした。
春秋戦国時代末期、全土統一を果たした秦の始皇帝は法治主義を唱える法家の思想を重んじ、
他の思想活動を厳しく弾圧、儒教もその例外ではなく、その教えを説く者を生き埋めにし、その教えを記した書物を焼き払う『焚書坑儒』が行われました。
しかし、漢の時代に入ると儒教の価値は見直され、武帝が儒教を学問の正統として、五経博士という役職を起きました。
以降、儒教は中国思想・宗教の中心的な考え方としてその影響力をアジア全域に広めたのでした。
儒教がもたらした悪影響……外戚の問題
秩序ある理想社会の実現を目指して創始された儒教でしたが、それが社会にもたらしたものは、良い影響ばかりではありませんでした。
中国では古来から、先祖崇拝に基づく家父長制度が社会の基板とされてきました。
先祖を祀ることを「孝」と呼びましたが、儒教を信奉する者はこの「孝」を徳のひとつとし、家庭において子が親に尽くすことを説きました。
現代でも使われる「親孝行」は、この「孝」の教えよりきています。
儒教が広まることにより、「孝」の考え方も一般化していきましたが、そのことが政治に思わぬ悪影響を与えました。
それが外戚の問題です。
外戚とは、皇帝、または王の母親や、妃の一族を意味します。
「孝」の教えによれば、皇帝や王といった人の上に立つ君主は、
人民の模範になるよう進んで母親やその親族に「孝」を尽くすべきだとされていました。
その結果、皇帝が過剰に母方や妃の親類を重用する風潮が生まれました。
外戚たちは政治面でも権限を与えられてしまい、彼らが好き放題をした挙句、世の中が乱れるという事態が度々繰り返されました。
後漢王朝の末期、宮廷内部では、権力を得た外戚と、
同じく宮中にあって政治的権力を得ていた宦官(去勢した男性の役人、主に皇帝の後宮に仕えた)と呼ばれる者たちが争っていました。
政治は乱れて民衆は飢え苦しみ、最終的にそれは黄巾の乱を引き起こす原因となってしまいます。
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また、三国時代には儒教の教えを嫌い、新しい思想の道を模索する者たちも現れました。
彼らは老子や荘子といった道家の教えを信奉し、世俗を超越した哲学的な議論を好みました。
その学問は玄学と、その議論は清談と呼ばれました。清談をよくした人物として「竹林の七賢」が知られています。
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再評価が進む儒教
中華人民共和国の成立以後、儒教は文化大革命において社会共産主義による革命に対する反動思想として徹底的な弾圧を受けました。
中華人民共和国を建国し毛沢東は、儒教を痛烈に批判した曹操を好み、三国志を愛読していたと言われています。
しかし21世紀に入り、中国では儒教の再評価の熱が高まり、2005年以降、孔子の生誕祭が国家事業として執り行われるようになっています。