孔子が弟子たちの才を称するときに挙げたとされる徳行・言語・政事・文学の4つの項目は「孔門四科」と言われています。徳行は道徳にかなった正しい行い、言語は言葉の使い方が巧みでコミュニケーション能力に長けているさま、政事は政治上のことがらへの取り組みのことを指します。
ところで、最後に挙げられている文学とは何を指す言葉なのでしょうか。おそらく多くの人は文学といえば詩や小説を思い浮かべるでしょうが、この文学は詩才や文才のことを指す言葉ではありません。文学とは、古今東西、多くの文献や学問に精通していることなのです。そんな文学に秀でていたとされるのが子游、その人。果たして子游はどのような人物だったのでしょうか?
あの孔子も一本とられた!
孔子がある日武城という小さな町に出かけたとき、琴の音と歌声がどこからともなく聞こえてきました。それに気づいた孔子は意地悪そうにニッコリ。「鶏をさばくのに牛刀を使う必要があるのかね。」
孔子はこんな小さな町に礼楽なんて必要ないと小馬鹿にしたのです。
おい!おまえ聖人らしくないぞ、孔子!
その言葉を自分への嫌味と受け取った武城の宰であった孔子の弟子・子游は次のように答えました。
「おそれながら、私は以前先生から君子が礼楽を学ぶと人をも愛するようになり、小人に礼楽を学ばせると彼らは従順になるということをお聞きしました。どんな人にも礼楽を学ばせるべきではありませんか?」
子游の怒涛の反論に孔子もタジタジ。一本とられた孔子は「弟子たちよ、子游の言葉が正しい。さっきのはちょっとした戯れだったのだよ。」とテヘペロしてごまかすしかありませんでした。(『論語』陽貨篇)孔子、カッコ悪すぎるぞ!
ドヤ顔が似合う弟子
孔子をも言い負かす子游。その姿を『論語』に求めてみると、けっこうドヤ顔が似合いそうな弟子だったんだろうな…と思わされます。『論語』は孔子の名言集とも呼ばれているのですが、たまに彼の名言がバン!と単体で載っているのです。
子游は言った。
「主君に仕えて口やかましくすれば主君から辱められることになるし、
友人に口やかましくすれば疎遠にされるものだ…。」(『論語』里仁篇)
ドヤァア…!
子游は言った。
「喪には悲しみを尽くす、それだけだ…。」(『論語』子張篇)
ドヤァアア…!
子游は言った。
「私の友人の子張は、成しがたいことも成し遂げる。
でもまだ仁ではないね…。」(同上)
ドヤァァアアアア…!
何故でしょう。他にも名言を残している弟子はたくさんいるはずなのに、子游の言葉の後にはドヤ感がぬぐえません。最後の言葉なんてまるで自分が孔子になったようなつもりで他人を論評しているではありませんか!でも、そんなドヤ発言が許されたのは、やはり孔子が認めた弟子だったからなのでしょう。
子夏はライバル!?
しかし、そんなドヤ弟子・子游も「ぐぬぬ…」と言葉を詰まらせることがあったようです。それは、こんなエピソード。子游が同門の子夏の門下生について「まぁ子夏のところの若者たちは掃除や客への応対については言うことはないが、どうも上辺だけで中身に欠けるね。」と盛大にディスりました。
子夏が門下生たちに礼の根本を教えていないと批判し、「どうかね?」にドヤ顔して見せる子游。これを聞いた子夏は当然黙っていません。
「子游、君は間違っている。君子の道は何をまず教えなければならないとか、何を後回しにしてはならないとかそういうものではなく、門下生の力量にあわせて順序良くものごとを教え諭すべきだ。ちょうどその種類によって草や木の育て方が違うようなもの。どうして君子の道を無理矢理一から詰め込んでごまかせるだろう。一から十まで全て備えられるのは聖人だけで、若者にそれを求めるのは難しいだろう。」(『論語』子張篇)
その後の子游の応答については記されていませんが、おそらくあまりの正論に返す言葉もなかったことでしょう。同じく文学が優れていると孔子に評されている子夏は、もしかしたら子游にとってライバル的存在だったのかもしれません。
三国志ライターchopsticksの独り言
なんとなくドヤ感が拭えない子游ですが、彼は孔子の多くの弟子たちの中でも唯一の南方生まれの人物だったそうです。その当時、南方の人といえば野蛮なイメージを持たれがちでしたから、子游も度々嫌な思いをしたことでしょう。
それでも、持ち前の頭脳と博識さを孔子に認められたことにより、彼は自分の力に大いに自信を持つことができたのではないでしょうか。そんな彼は、後に南方の故郷に帰って人々に孔子の教えを説いて回り、南方夫子と称されて人々に愛されたのだそうです。
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