歴史は小説やドラマなど題材となることが多いことから、フィクションと事実がごちゃごちゃになってしまうことが多いですね。
また、歴史の研究では、真事実が発見されるなどで、今まで教科書で教えていた内容が変わってしまうこともあります。ペリーの黒船についても、一般に思っている「常識」が実は「ウソ」であったりすることがあります。今回は、ペリーの黒船についてのウソと本当のことについて、解説していきます。
この記事の目次
【黒船のウソ1】黒船はペリー艦隊のみではない
今の日本人が「黒船」と聞けば「ペリーの黒船」のことを思い出すと思います。黒船とはペリー艦隊の軍船のことであると思っている人は多いのではないでしょうか。「ペリーの黒船の来航によって日本は開国しました」という記述になんの違和感も感じないでしょう。
実は「黒船」と呼ばれるのは大型の西洋式航洋船のことで、江戸時代以前から、日本にやって来ていたこの種の船の「総称」のようなものです。確かに、ペリー艦隊の軍船も「黒船」ではありますが、ペリー艦隊の軍船「だけ」が黒船と呼ばれたわけではありません。戦国時代から豊臣秀吉の時代に、盛んに日本にやってきた西洋の大型帆船も「黒船」と呼ばれており、ペリー艦隊もその一種として「黒船」と呼ばれているのです。
船体の黒は防水のために塗りこまれたタールの色です。ただ、蒸気船が日本にやってきたのは、ペリー艦隊が初めてのことになります。
【黒船のウソ2】黒船は鉄では無かった
ペリー艦隊というと、当時最新鋭の巨大船で「黒船」と言う言葉から「黒金(鉄)」を結びつけ、鉄製の軍船であったと思っている方も多いのではないでしょうか。ペリー艦隊の4隻の軍船は全て木造であり、鉄製の船ではありませんでした。その当時は丁度、木製軍艦に鉄板を貼り付けた船や、全鉄製の船などの建造も進んでいる過渡期ともいえる時期でもあり、普通に木造軍船も艦隊の主戦力として運用されていたのです。
【黒船のウソ3】蒸気船は2隻だけ実はショボかったペリー艦隊
ペリー来航の際の狂歌に「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という有名なものがあります。「上喜撰」とは高級なお茶(お茶にはカフェインが入っています)で、そのお茶を四杯飲んだら眠れなくなってしまったという狂歌です。
「上喜撰」を「蒸気船」に掛けたもので、この歌が有名なせいか、ペリーの船は全て蒸気船であったのではないかと思っている人も多いのではないでしょうか。しかし、ペリー艦隊の4隻のうち蒸気機関を搭載した船は2隻で旗艦のサスケハナとミシシッピだけです。残りの サラトガ 、プリマスは帆装船です。ペリーは日本に対する威圧のために4隻の蒸気船を要求しましたが、アメリカ政府は2隻しか許可しませんでした。予算の問題がそこにはあったのです。
蒸気船は、アメリカにとってもまだ貴重だったのです。しかし、蒸気船の来航は日本にとって初めてあり、それだけ強烈な印象を日本に残しました。その結果、ペリー艦隊の全てが蒸気船であったという思い込みが今でも残っているのかもしれません。
【黒船のウソ4】浦賀に来たアメリカ人はペリーが最初じゃない!
(画像:ジェイムズ・ビドルWikipedia)
ペリー艦隊が浦賀に来航する7年前に、アメリカ船が浦賀にやってきていました。浦賀にやって来たアメリカ人は、ペリーが最初ではなかったのです。ペリーの前にやって来たのは、ジェームズ・ビドルの率いるアメリカ船2隻です。ビドルは本来、清に駐在していた公使に、日本との開国交渉を開始する命令書を送りに来たのですが、公使が病気になっていました。
そのため、ビドル自身が日本と交渉を行うことになり、彼は日本に向かいます。浦賀に来航し、日本と条約を結びたい旨を伝えました。数日待たされ、幕府の役人がやってきて、ビドルの船に乗船します。その間、ビドルの艦隊は日本船に取り囲まれていました。乗船した幕府の役人がビドルをぶん殴り、刀を抜くと言う事態までいきましたが、これは日本側が謝罪して事なきを得ました。
ビドルは、日本の開国、条約締結を要求しますが、幕府は交渉を拒否します。幕府はビドルに長崎に回航するようにと型どおりの返答をしました。ビドルはそのまま交渉を諦め浦賀から出て行き、それ以上、日本との交渉は行いませんでした。
【黒船のウソ5】幕府も庶民も黒船を怖れてはいなかった
江戸の一般庶民は、江戸湾に現れたペリー艦隊、いわゆる黒船を恐れてパニックになったと思っている方もいるかもしれません。しかし、全くそんなことはありませんでした。確かにいきなり巨大な船が煙を吹いて現れたのですから『驚き」はしたでしょうが、恐怖やパニックとは全く無縁でした。
そもそも「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という狂歌も「上喜撰」=「蒸気船」と書いているように船が蒸気で動いているというメカニズムを日本人は理解していたということです。その証拠に幕府は幕府は再三「異国船見物禁止令」を出しています。浦賀は黒船見物人が集まり、一大観光地かイベント会場のようになってしまっていました。浦賀には屋台まで出てくると言う始末でした。
幕府が再三この禁止令を出していると言うことは、庶民が幕府の禁令に関係なく、黒船見物に殺到したという証拠です。中には船に乗って黒船に接近する江戸庶民もいました。そんな日本人を見て、ペリーは日本人に対し、他の非西洋諸国と違う何かを感じたのかもしれません。
【黒船のウソ6】艦砲射撃より江戸湾を占拠される兵糧攻めを怖れた
江戸幕府がペリーの黒船を恐れたのは、艦砲射撃で江戸の町が焼かれることよりも、江戸湾が封鎖され、江戸の物流が止まってしまうことでした。当時100万人を超える世界一の巨大都市となっていた江戸は大消費地であり、その物流は海運と、運河、河川を利用した物が中心となっています。
浦賀は、東側に千葉県の富津岬が突き出しており、東京湾の中でも最も狭い場所になっています。ここを四隻の軍船で封鎖されれば、江戸の物流は止まり、経済的に大打撃を受けてしまいます。その不満は直接幕府に向かうでしょう。幕府が何よりも恐れたのは、艦砲射撃よりも、江戸湾を封鎖、占拠されることによる物流の阻害、いわゆる兵糧攻めによる経済的な打撃だったのです。
幕末ライター夜食の独り言
ペリーの黒船に関しては、他にも幕府はうろたえて何もできなかったと言う話や、弱腰外交であったというような話も一般に信じられています。しかし、幕府はオランダからかなりの情報を収集しており、また西洋技術についても知識としては有していました。
ですので、ペリーも日本人は、西洋の技術に対し遅れてはいるが、知識階層はそれが何であるのかと言う点を理解しているということを書き残しています。幕府の交渉も、自分たちを「弱国」であるという冷静な認識の元で最大限の譲歩を引き出そうとしています。徹底した筋論で戦い、ペリーの要求した小笠原の領有権などを認めさせませんでした。
歴史には新たな発見があり、自分が小学校、中学校で教わっていたことが、今は全然違った話になっていると言うことも多くあります。また、幕末、戦国時代などはフィクションで取り上げられることが多く、どうしても、フィクションとごちゃごちゃになってしまうことがあります。見事な考証を行いつつ上手いウソを混ぜる歴史小説などでは、騙されてしまうこともよくあります。ペリーに関しても信じていたことが、実は「ウソ」だったということが多かったのではないでしょうか。
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