これまで萩の乱のリーダーとして担ぎ出された前原一誠について取り上げてきました。今回は萩の乱とほぼ同時期に発生した不平士族の反乱について取り上げます。
萩の乱ってどんな反乱だった?
萩の乱は1876年に起こった反乱で、明治政府に対する不平士族の反乱の1つです。1876年10月に熊本県で起こった神風連の乱、福岡県で起こった秋月の乱に呼応する形で、山口県で萩の乱が起こりました。
萩の乱について、前原一誠がリーダーで不平士族200人が反乱を起こしました。萩の乱は1ヶ月足らずで鎮圧され、前原一誠は逮捕され、処刑されました。
この乱では、吉田松陰の主宰していた松下村塾の塾生が不平士族に加わって明治政府軍と戦いました。
『吉田松陰と前原一誠について考えよう!
松陰の思想を最も濃く受け継いでいたのは、前原だった?!』で取り上げていますが、松陰の死後に松下村塾を主宰していた玉木文之進が息子や塾生が萩の乱に加わったことに責任を感じて、墓前で切腹しました。松陰の実兄の杉民治は反乱の責任をとって本郷代官を辞職し、隠居の身となりました。1880年に松下村塾を再興し、子弟教育に励みました。
不平士族の反乱が止まらない!
1876年に不平士族の反乱として神風連の乱が起こりました。この乱は神道系の新興宗教中心の反乱であったことから別の言い方で敬神党の乱と呼ばれています。
旧肥後藩の士族・太田黒伴雄が神風連(敬神党)を結成しました。明治政府は廃藩置県や秩禄処分など武士の特権を奪う改革を行います。武士の特権を奪う法律の1つである「廃刀令」が出されました。廃刀令で刀を持つ特権が奪われるだけでなく、日本人としての誇りが失われる恐れがあると感じ、武力行使にでました。
神風連の乱は秋月の乱(福岡県)と萩の乱(山口県)と連携して反乱を起こす計画でしたが、この計画が明治政府に漏れました。急遽、神風連の乱では熊本鎮台を攻略し、成功しました。鎮台の攻略に成功しましたが、明治政府軍の巻き返しにより撃退されました。
前原一誠の最後!
前原一誠は萩の乱後に逮捕され、処刑されました。処刑される前に辞世の詩を残しています。辞世の詩は次の通りです。
「吾今為国死 死不負君恩 人事有通塞 乾坤弔吾魂」
(吾いま国のために死す 死して君恩にそむかず 人事も通塞あり 乾坤わが魂を弔う)。
処刑前には前原のサインを求める人が多く、膝前に積み上げられた紙に次々とサインをしていました。処刑直前にサインを求める人が多かったことから前原の人柄を高く評価することができます。
前原一誠旧宅を観光しよう
前原一誠旧宅は山口県萩市にあります。前原一誠の旧宅は萩市の観光スポットになっています。前原一誠の旧宅の庭に「明治九年萩の変殉国義挙の庭」と書かれた石碑があります。交通アクセスについて紹介します。最寄り駅はJR東萩駅です。東萩駅を下車して目前の橋を渡ります。橋を渡ると進行方向左手にはお洒落なプチホテル・クランベールがあります。クランベールの脇の小路を左に折れて裏通りを進むと見つかります。普通の人家でひっそりと佇んでいるのが特徴です。
前原一誠の旧宅については外観のみ見学可能が、この旧宅は個人所有のため敷地内に立ち入ることができません。見学する際、注意をお願いします。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は、前原一誠の起こした萩の乱とほぼ同時期に起こった不平士族の反乱である神風連の乱について取り上げました。後半では前原一誠の最後について、処刑される直前の様子を取り上げました。これまでの前原一誠に関する記事では、人柄が評価されてきたと述べただけで、具体的な内容については触れてきませんでした。この記事では処刑前に多くの人が前原にサインを求めたという出来事を取り上げました。この前原に関するエピソードは人柄について評価できると思います。
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