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幾島の一手!大奥から日本歴史を揺るがす[大変革]

2024年5月13日


幾島

 

現在人気を博している大河ドラマ「西郷(せご)どん」。西郷どんには色々な登場人物出現し、今回紹介する幾島(いくしま)篤姫(あつひめ)と一緒に何度も登場しています。そしてこの幾島ですが女性ながらとんでもない人でした。それは彼女が幕府の政治を流していた事で大きくその後の日本の政治を変化させたかもしれないのです。もしかしたら幾島は西郷さんや桂小五郎(かつらこごろう)大久保利通(おおくぼとしみち)に匹敵するくらいすごい人かもしれません。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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幾島じゃないよ糸だよ

 

 

幾島が日本の幕末、幕府の政治を影から操っていたフィクサーだった可能性を紹介する前に彼女がどのような人だったのか紹介したいと思います。幾島はこのような名前をはじめから名乗っていたのではありません。初めは(いと)と言う可愛らしい名前を持っていました。彼女は薩摩の生まれで父は薩摩藩の御側用人を務めた朝倉景矩(あさくらかげのり)です。

 

御側用人は藩の中でそれなりに有能な人物が就任する役職で、父は薩摩藩の中では優秀な人で、彼女は父から礼儀や教養を学びます。彼女は父から教養等を学んだことが幸いして、天璋院(てんしょういん)篤姫の祖父・島津斉宣(しまづなりのぶ)の娘郁姫(いくひめ)が公家の近衛家(このえけ)(とつ)ぐ際、郁姫に付き従っています。幾島は郁姫に従って近衛家に入りますが、郁姫が亡くなってしまいます。

 

幾島は薩摩に帰ることもできましたが、近衛家へ仕え、郁姫を弔うために出家して得浄院(とくじょういん)と名乗ります。こうして得浄院は郁姫を弔いながら過ごしますが、再び歴史の表舞台へ登場することになります。

 

 

 

島津斉彬からご指名入ります!!

島津斉彬

 

得浄院は近衛家で郁姫を弔う毎日を過ごしていたある日、島津家の当主・島津斉彬(しまづなりあきら)から「篤姫と徳川家へ行って欲しい」と要請がきます。斉彬は徳川幕府の将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)と篤姫の婚約が決定。しかし斉彬は篤姫が若く教養もあまり見についていないことを心配していました。

 

篤姫

 

斉彬は篤姫の教養をしっかりと教えることができる人物を物色し、近衛家で礼儀作法をしっかりと身につけた得浄院がいることを思い出します。そして斉彬は篤姫に得浄院をつけて近衛家で得浄院が学んだ礼儀作法を篤姫に身に付けさせようと考え得浄院を指名したのです。

 

得浄院は斉彬の要請を快諾。そして篤姫と得浄院は江戸へ向かうことになります。江戸へ向かう前に篤姫は江戸へ向かう前に近衛家の養女の身分へ。得浄院も近衛家の家士・今大路孝由(いまおおじたかよし)の養女の身分を得て名前も改名します。得浄院はこうして記事のタイトルにもなっている幾島に改名し江戸へ向かうのでした。

 

 

歴史を変えるため暗躍する幾島

徳川家定

 

 

篤姫と一緒に幾島は江戸城の大奥へ入ることになります。篤姫は将軍・家定と結婚しますが、未だに子供ができませんでした。家定は病弱で彼の側室からも子供が生れませんでした。幕臣達は病弱な将軍に子供ができないため、次の将軍を誰にするか議論をしていました。この議論の中で次の将軍の候補に挙がったのが、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)徳川慶福(とくがわよしとみ)のふたりが有力な候補でした。

 

島津斉彬

 

島津斉彬は一橋慶喜を将軍の後継者に選ばれるべきだと考え、家定の奥さんとなっている篤姫へ「一橋慶喜が将軍になれるように根回しをしておけ」と秘密の命令を出します。しかし篤姫が斉彬の命令を受け取った時、まだ21歳の麗しいお姫様で、このような政治向きの工作ができるわけがありません。そこで篤姫の側近である幾島が篤姫の代わりに政治工作を開始。彼女は篤姫の代わりに大奥で獲得した情報を薩摩藩へ流していました。彼女の情報は西郷隆盛(さいごうたかもり)を中継し斉彬が受けとります。

 

西郷隆盛

 

 

こうして篤姫の代わりに幾島が政治工作を行い、薩摩藩が将軍後継者問題へ乗り遅れることなく積極的に関わっていく事になります。彼女の政治工作はうまくいっていたのですが、大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任し、強引に徳川慶福を次の将軍に決めてしまった事で斉彬の思惑が失敗に終わるのでした。

 

井伊直弼

 

 

もし井伊直弼が大老になっていなければ、慶喜が将軍になっていたでしょう。そして慶喜の将軍決定に一役買った幾島の名前がもっと有名になっていたかもしれません。こうして彼女の政治工作は失敗に終わり、体調を崩してしまい、体調を崩した翌年大奥を引退することにします。大奥を引退した幾島ですが、彼女の役目はまだまだ終わりません。

 

 

江戸城無血開城に貢献

江戸城

 

幾島はその後引退して養生していましたが、世の中は大きく変化します。彼女が養生している間に幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗北し、賊軍認定を受けてしまいます。この時の将軍・徳川慶喜は幕府軍を捨てて江戸城へ一足先に逃げてきてしまいます。

 

洋服を着る徳川慶喜

 

 

幕府軍を蹴散らした薩摩・長州などから形成される新政府軍は慶喜を捕獲するため、江戸城へ向けて進撃してきます。江戸を火の海にしないため、天璋院篤姫からの要請を受けて大奥の使者として幾島が西郷隆盛と会見。彼女は天璋院篤姫からの手紙を西郷へ渡し「江戸城無血開城」をするように言葉を尽くして説得します。

 

西郷は幾島との会見後、幕臣・勝海舟との交渉を得て「江戸城無血開城」を決意。こうして江戸は戦果に晒されることなく開城するのでした。勝海舟一人でも西郷を説得して、江戸を戦果に晒さずに無血で開城出来たかもしれませんが、スムーズに交渉は進まなかったでしょう。ではどうしてスムーズに交渉が進んだのか。それは裏で幾島と天璋院篤姫が事前に西郷を説得していたから「江戸城無血開城」はスムーズにいったのではないのでしょうか。

 

 

幕末ライター黒田レンの独り言

幕末ライター黒田レンの独り言

 

今回は幕末の裏舞台から歴史を動かした幾島を紹介しました。幕末は西郷や木戸、大久保、坂本竜馬(さかもとりょうま)等が有名でついつい幕末に活躍した女性を忘れてしまいがちです。しかし幾島が幕末に活躍した歴史への貢献度はかなり大きく、日本の歴史を動かしたと言えるのではないでしょうか。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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