幕府に対し高圧的な交渉を行い、条約締結を成功させたアメリカのペリー。そして、幕府に対し融和的、紳士的な態度を貫き、条約締結を成功させたロシアのプチャーチン。幕末に日本にやってきた使節は幕府に対し対照的な対応を行いました。
しかし、ペリーもプチャーチンも日本を十分に研究した上で、このような対応を行ったという点では共通しています。今回は両者の交渉の仕方の違いから見えてくる日本人の弱点について考察してみました。
この記事の目次
【ペリーの日本人観】友好より恐怖に訴え軍事力で圧倒すべし
ペリーは日本開国のための計画を上司である海軍長官に提出しています。この中で、ペリーは「恐怖を与える」事の方が友好的に接するより効果があると説明しているのです。その根拠は、清に対しての交渉で得た教訓でした。
圧倒的な軍事力、科学的優越が目で見て分かる巨大な蒸気船軍艦による「砲艦外交」がアジア人には効果的であろうと判断したのです。その上で、長崎に向かえば、オランダの妨害にあう可能性を考慮し江戸に近い浦賀に直行します。ペリーは軍艦13隻の大艦隊を要求しますが、さすがに費用がかかりすぎるとうことで、最終的に4隻の軍艦が日本に来航することになります。そして、この4隻であっても十分な威圧を幕府に与えることになったのです。
【プチャーチンの日本人観】幕府のプライドを傷つけず紳士的に接する
プチャーチンはペリーとは対照的に友好的、紳士的に振る舞い、幕府と平和的に交渉することを考えていました。まず、ニコライ1世が平和的な交渉を望み、プチャーチンにそう命じていたことがあります。ロシア周辺のヨーロッパ情勢が不安定であり、極東方面で大きな問題を起こすわけにはいかなかったのです。
また、プチャーチンはシーボルトから日本人の性格ついて忠告を受けており、幕府の面子を潰さない交渉を考えていました。プチャーチンは、日本人はプライドが高く、面子や礼節を重んじるというシーボルトから得た日本人感をベースにして、皇帝の指示に従い、紳士的な交渉を幕府に対して行ったのです。
「権利」を主張するペリーと「道義」を主張するプチャーチン
ペリーは浦賀に停泊する前日の日記に「懇願はしない、権利を主張する」ということを書いています。幕府に対し、自分たちが「野蛮人」であるという態度を受けないためにも、権利を主張するという態度は崩すべきでないと考えてしました。
ペリーは自身が厳格で排他的あればあるほどに、日本人側は、自分に対し儀礼を重んじ、尊敬するようになるという確信をもっていたのです。そのため、ペリーは軽々しく表に出ず、幕府の高官のみ乗船させる態度を貫き、交渉にあたっても、まず自分はでず、副官に交渉させます。幕府に対し、自分の権威を高めていくような方向に持っていくのです。
これに対し、プチャーチンは幕府の外交窓口である長崎に来航している時点で、幕府の考える「道義」に従った行動をとっています。ロシアは過去にもラックスマン、レザノフなどが対日交渉を行っており、そのときの幕府の要求通り長崎で交渉を開始しようとするのです。ペリーは最初から「権利」を主張し高圧的にその権利を幕府に飲ませるために、威圧的な態度で幕府に接します。プチャーチンは、幕府の面子、外国船がきたときの対応の方法に従うという「道義」を重んじ長崎で幕府の交渉担当者を待つことになるのです。この点でも、ふたりの幕府、日本人への対応は対照的でした。
強大になるアメリカと没落明らかな帝政ロシアとの違い
日本に開国を迫る西洋列強の動きは、19世紀半ばに産業革命から、国力を大きく増したイギリスが東アジア方面で植民地政策よりも自由貿易政策へと舵を切ったことに起因します。アメリカも広大な国土と豊富な資源を背景に急速に国力を増していました。工場を夜も稼動させるためには、明かりが必要でその明かりの原料の油が鯨油です。アメリカの捕鯨はそのため非常に活発となり、東アジアにおける寄港地を必要としていました。
また、アメリカは清との貿易のため、太平洋横断航路の開発にも乗り出しています。そして、帆船から蒸気船へと技術革新が進んだことで、石炭の補給が必要となり、長期間の航海のための中間寄港地の必要性が高まります。経済的に発展し強大になっていくアメリカは、このような理由で、日本に対し開国を迫ってきたのです。
一方、ロシアのプチャーチンはイギリスのアヘン戦争勝利によって、極東におけるイギリス勢力の伸張を懸念し、ロシア皇帝、ニコライ一世に日本を含む極東方面への派遣を提言しました。しかし、ロシアはトルコ問題の解決を優先すると言う決断をします。これは、極東方面への進出に対する国費増大を恐れたロシアの蔵相の意見を、ロシア皇帝、ニコライ一世が受け入れざるを得なかったからです。
ロシアは農奴制に基づく国内経済体制が完全に行き詰まり、産業革命をなしとげていく他の西洋諸国に対し遅れをとっていたのです。ロシア帝国はこの時点ですでに没落の途上にありました。強大になっていくアメリカの使節であったペリー艦隊の旗艦は最新の汽走艦「サスケハナ」です。没落していくロシアの使節であったプチャーチン艦隊の旗艦は老朽艦の「パルラーダ号」です。日本にやってきた船を見ても、両国の勢いの違いが分かります。
日本人に脅威を感じたペリーと引退後も日本に好感を持ち続けたプチャーチン
ペリーの日本に対する予言の言葉として取り上げられことがあるのが次の言葉です。「日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう」日本の近代化とアメリカのライバルになることをペリーは日本人と接したことで感じていました。
日本人はペリーの持ち込んだ、数々の近代文明の生み出した機械などに興味を持ちます。異常なまでに好奇心を示します。それは、他の非西洋諸国ではなかったことでした。一般人まで黒船見物に殺到するくらいに、日本人は好奇心旺盛で、黒船が来たことで江戸市民が怯え慌てふためいたということは実際ありませんでした。
ペリーは西洋と異なりながらも、秩序だった社会を創り上げていた日本と、好奇心旺盛な日本人を見て、日本の近代化とアメリカの強力なライバルとなることを予言したのでしょう。一方、プチャーチンは安政の大地震による津波に巻き込まれるなどの不運もありましたが、このとき、日本への救援活動を行い、幕府の心証を非常に良くします。プチャーチンも、沈没した船の代わりのヘダ号建造を日本人の協力を得ることで、行うことが出来ました。
この点、プチャーチンは安政の大地震によって、幕府と協力することになり、結果としてプチャーチンも日本人に対し、非常に好意的になっていくのです。プチャーチンはその後もずっと親日家でした。彼は、ロシアにおいて日本人留学生の受け入れや、日本領事館建設の際にはいろいろな便宜を図るなどの活動を続けていくのです。
強圧的か道徳的な「外国人」に弱い日本人の性格の弱点
日本人の弱点として指摘されるのはまず「外圧に弱い」ということです。これは今でもよく言われることです。ただ、江戸幕府のペリーに対する対応は、客観的に日本を「弱国」であると認識し、その上で最大限の効果を上げるにはどうしたらいいかということで、粘り強く交渉はしています。
相手に対抗できる軍事力が無い中で、個々の交渉を行った幕臣たちは、有能であったといえるでしょう。ただ「弱国」であるという認識に立った外交戦略を、国内で共有することができないのが、幕藩体制の現代であり、それが尊王攘夷運動の激化という内政問題につながっていきます。この図式は、日本が「弱国」といえなくなっても、同じような欠陥として続いていきます。
また、日本人の弱点には「道徳的」で親日的な対応を行われる国に対し信頼しすぎるというものもあります。プチャーチンの親日的な態度に、幕府は一時ロシアを使い他国をけん制して、外交的に優位に立とうと検討します。これは、直接の交渉担当者だった、川路聖謨が反対します。ロシアを信用しすぎるなということです。
日本に友好的な国が出てくると、その国をあまりにも信用してしまうのは、日本人の性格の弱点ででしょう。どのような国であっても、その国の国益が最優先なのは当たり前のことですが、それを忘れてしまう日本人が多いのです。
幕末ライター夜食の独り言
ペリーの高圧的な砲艦外交に対し、幕府は日本を「弱国」であると認識し、それを基本として、筋論で粘り強く交渉します。アメリカが主張した小笠原の領有権なども突っぱねています。ただ、幕府は、外交問題が内政問題に広がることを防げなかった部分で失敗をしてしまいます。このような失敗は、日本が太平洋戦争に至る道と同じ図式を根本に持っています。
強硬な世論と穏便に済ませたい政府との乖離の図式は、幕末と戦前の日本とで、相似形に見えてきます。見方によっては、幕末で出来なかった攘夷を、近代化をなした日本が強行したら、失敗しましたということも言えるかもしれません。
また、友好的な国家が、常に友好であり続け日本のために動いてくれるのではないかという希望的観測をしてしまうのも、日本人の弱点でしょう。どのような国であっても、まず自国の国益が最優先です。「自国・ファースト」は、どこの国であっても当然の話でしょう。自国の利益を阻害しない範囲での友好が国際社会の原則です。
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