NHK大河ドラマ「光る君へ」で竜星涼さんが演じているのが藤原隆家です。貴公子然とした兄とは反対に粗野で乱暴な行いが多く、遂には兄の愛人を寝取ったと勘違いして花山法皇に矢を射かける暴挙をやらかし、伊周と共に失脚する長徳の変の憂き目に遭いました。ところが、隆家はこれで尾張ではなく、その後、日本を侵略に来た刀伊を巧みな指揮で追い返す英雄的な行動もしているのです。
中関白家のエリートに生まれるが…
藤原隆家は平安時代の貴族で、979年に中関白家の当主である藤原道隆の四男として生まれました。兄に藤原伊周がいます。若くして出世し、16歳で権中納言となるも、父の死後に権力を握った叔父の藤原道長と対立し権力闘争に巻き込まれます。隆家は短慮で乱暴な性格として知られ、特に花山法皇に対して矢を射る事件(長徳の変)を引き起こし、兄伊周と共に、中関白家没落の原因を作りました。この事件は伊周の愛人を巡る誤解が発端でしたが、花山法皇を襲撃するという大罪を犯したため許されず、兄と共に左遷の憂き目に遭ったのです。
40歳で刀伊の侵略を撃退する
しかし、隆家の生涯はこれで終わりではありませんでした。京都に戻って後、叔父の藤原道長に盾突く事が多かった隆家は道長に睨まれ政治に疲れてしまい、眼病の治療の為に、腕の良い宋国の医者がいる筑前国に向かいたいと願い出て、九州の防衛の要である大宰権帥として赴任します。隆家は若い頃とは打って変わり、大宰権帥では善政を敷いて庶民にも慕われ九州の在地武装勢力をよくまとめたそうです。1019年、女真族の一派である刀伊が入寇、刀伊は壱岐や対馬を襲撃した後で九州博多に上陸しましたが、隆家は現地の武装勢力をうまく統率し刀伊を見事に追い払いました。
外交のアフターケアまで
この頃の朝廷は元寇の頃の鎌倉幕府とは違い、外国の侵略についてほとんど何の備えもしていませんでした。隆家の急を知らせる使者に対しても反応は鈍く、当然、京都からの援軍は計画さえありません。隆家は独力で刀伊と戦わざるを得なかったのです。また、隆家は刀伊に囚われた日本人の人質を返還しにきた高麗の使者に対しても贈物を出し、不信感をぬぐえない朝廷に代わって外交的なアフターケアまでしています。失礼ですが若い頃に花山法皇に矢を射かけたとは思えない有能ぶりですね。
実は和歌や漢詩も残している
隆家は武勇だけではなく和歌や漢詩も残しました。後拾遺和歌集や新古今和歌集には彼の和歌が採用されており、漢詩も「本朝麗藻」に収録されています。さらに、彼の母である高階貴子は小倉百人一首に名を連ねる歌人でした。乱暴な気性に隠れてはいるものの、隆家もまた優れた文化人でもあったのです。
子孫も日本史を揺るがす
隆家の子孫は、正三位権中納言となった長男の良頼や、正二位権大納言となった次男の経輔など、高位に昇進しました。彼らは日本の政治や文化に多大な影響を与え、隆家の武勇と知性を受け継ぎました。特に経輔の子孫には、後鳥羽天皇の母となった七条院殖子や、平治の乱の首謀者である藤原信頼が含まれています。
再評価される隆家
従来、藤原隆家は花山法皇に弓を引いた乱暴者としての印象が強かったのですが、後年の刀伊の入寇を撃退した功績により再評価されています。隆家は単なる乱暴者ではなく、国を守った英雄としての側面も持ち合わせていました。藤原隆家は、時に短慮で乱暴な行動を取った一方で、貴族として真の責任感と武勇を持ち合わせた人物でした。一度致命的な失敗をしても腐らず、精進を続け、遂には国を守る大手柄を立てた隆家は、失敗を恐れず、挫けても何度もやり直せる再チャレンジ可能な日本社会の象徴となりうるのではないでしょうか?
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