1868年、明治政府は王政復古の大号令と祭政一致(祭祀と政治が一致すること)から神道の国教化の方針をとりました。神道国教化で神道と仏教が混ざった神仏習合が終わり、神道と仏教が分離されました。
分離されるだけでなく、寺院や仏像など仏教に関連する物のほとんどが破壊される廃仏毀釈も起こりました。今回は神道国教化と廃仏毀釈を中心に取り上げます。この記事の後半では、廃仏毀釈による影響と江戸時代の廃仏毀釈との違いについて取り上げます。
神道国教化以前―神仏習合とは?―
神道国教化以前、日本の神社の中に仏像や寺院がありました。日本の神と仏教との融合を神仏習合といいます。神仏習合は奈良時代から始まったといわれ、1868年の神道の国教化の方針が出されるまで続きました。神社の中に寺院がある寺のことを神宮寺といいます。神宮寺では神前読経を行ったり、仏像をまつったりしています。有名な神宮として、福井県の気比神宮、三重県の多度神社、茨城県の鹿島神宮が挙げられます。
神道と仏教の分離
神仏分離令で、明治政府は神道国教化の方針をとったことにより神社を寺院から独立させました。明治政府が神社と寺院を分離させたことにより全国的に寺院や仏像などの破壊や藩が寺領を没収するなど仏教を弾圧する動きが見られました。このような明治時代における仏教の弾圧運動を廃仏毀釈といいます。
廃仏毀釈による影響
廃仏毀釈によって多くの寺院や仏像が破壊されました。代表的な寺院として奈良市の興福寺を取り上げます。興福寺は現在世界文化遺産に登録されていますが、食堂が1875年に破壊されています。三重県では、伊勢神宮という天皇家のお膝元であるということで廃仏毀釈の影響が大きいといわれています。廃仏毀釈前まで、寺院の数が300ありましたが、破壊されて15にまで減ったといわれています。奈良県の十津川村については廃仏毀釈に従って全ての寺院を破壊したといわれています。十津川村には廃仏毀釈後1992年まで寺院が1軒もありませんでしたが、地元住民が立ち上がって1992年に寺院が再興されました。
江戸時代の廃仏毀釈とは?
これまでに江戸時代の廃仏毀釈については『島津斉彬(しまづなりあきら)は日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)に帰依していたの?』と『島津斉彬の性格のダークサイドを紹介』において取り上げました。島津斉彬の廃仏毀釈の特徴として、大砲などを製造するための軍資金を捻出するために釣鐘などを供出させたことが挙げられます。
一方で、明治時代の廃仏毀釈は神道と仏教が分離されたことにより始まりました。明治政府の狙いは軍資金の捻出ではありません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は神道国教化と廃仏毀釈について、前半で神道国教化以前の神仏習合で神道と仏教が融合した神仏習合と神道と仏教が分離した明治時代について取り上げました。日本人は多文化を受け入れ融合することが得意であるといわれています。明治時代において人々は西洋文化を受け入れてきましたが、なぜ仏教のみ神道国教化で破壊に至ったのか。動機が気になります。
廃仏毀釈について、明治政府が法律で仏教を排斥するようにと指示したという説があれば、神道国教化に反応した国民が暴走したという説もあります。この点についても今後の研究に注目したいと思います。この記事の後半では、廃仏毀釈の影響を取り上げました。日本で世界文化遺産や国宝に指定されている建築物や美術品については廃仏毀釈において幸いにも残ったものであるといえます。廃仏毀釈がなければより多くの仏像などの美術品や寺院などの建築物が残っていたのかもしれません。今後、廃仏毀釈において仏教を保護した人物や明治時代の仏教に関する芸術作品にも注目したいと思います。
kawa註 廃仏毀釈について
廃仏毀釈には、幕府の檀家制度も大きな影響があったという説もあります。キリシタンの反乱に懲りた幕府は、仏教を優遇し庶民は宗門人別帳に名前を記載され旅行や葬式のような冠婚葬祭で壇那寺の監視と束縛を受けるようになりました。冠婚葬祭を取り仕切る寺は、次第に収入が増えて裕福になり、僧侶の堕落が進み江戸時代の庶民の憎悪と反発を受けるようになっていきます。そこに国学や、水戸学のように日本固有の神道を重視し外来の仏教を批判する思想が尊皇攘夷思想と結びついて流行する事で、堕落腐敗した僧への反発が増大していき明治の廃仏希釈に繋がったとも言われます。
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