明治新政府発足後、不平士族の反乱の1つで佐賀の乱があります。佐賀の乱で江藤新平は処刑されますが、この記事では江藤新平の功績から近代司法制度の基礎を築いた人物としての江藤新平について取り上げます。
江藤新平の躍進「江戸を東京に」
江藤新平は29歳の時に佐賀藩を脱藩し、永蟄居の処分を受けました。
大政奉還で幕府が消滅すると新政府軍に参加し、江戸で戦後処理に当たりました。このとき、江戸を「東京」に名前を変えたのは江藤新平であると言われています。明治新政府では、左院副議長と司法省の司法卿として、学制・四民平等・警察制度・司法制度を整備し近代国家の基礎を築きました。その一方で、山形有朋や井上馨らの汚職を追求し、辞職へと追い込みました。新政府の中で征韓論に絡んだ明治六年の政変で西郷隆盛らと共に下野しました。
新政府を去ってから、江藤は板垣退助らと「民選議院設立建白書」に署名し、言論による活動を始めました。江藤の地元佐賀では、士族の不満が爆発し、4500人の士族が反乱を起こしました。この士族の反乱を「佐賀の乱」と言います。佐賀の乱は明治政府により鎮圧され、江藤新平は梟首(さらしクビ)という罰を受けることになりました。
※民選議院設立建白書
選挙により代議士を選び国民の代表が政治を行う事を目指した政治運動
司法省の司法卿ってどんな立場?
司法省では刑務所の管理と司法行政権を行っていました。当時、裁判所などの司法制度は行政の管轄にあったので完全に三権分立だったというわけではありません。司法卿の卿は長官を意味します。内閣制度に移行する前まで使われてきました。江藤新平は司法卿に就任すると、司法職務定制を制定して司法制度を整備します。判事・検事・明法(法律作成者)・代言人(弁護士)の設置、全国の裁判所設置、司法省と裁判所の権限を明確化することを決めました。
戦前、国権は重く、民権は軽くと言われました。地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害されたとき、人民は裁判所に出訴して救済を求めることが出来るという司法省達第46号を、江藤新平は保守派の反対を押し切って発布しました。当時、この司法省達は画期的でした。
近代司法制度の父と呼ばれる理由は?
江藤新平は明治政府での功績から近代司法制度の父と呼ばれています。司法卿になると、司法制度・学制・警察制度などの近代化政策を推進します。内務省に司法権があったため三権分立とは言えない状況でした。江藤は司法権を行政から独立させることを主張し、立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を実現させました。
四民平等、学校制度、警察制度、江藤が目指した国家像
江藤新平の功績は司法制度の改革にとどまりません。明治政府になると、士農工商という身分制度を撤廃しました。このことを四民平等と言います。身分制度を撤廃することはこれまでの日本史においてなかったことから画期的であると言えます。
司法制度・四民平等だけでなく、学校制度や警察制度をつくったのも江藤新平です。明治の学校制度は大木喬任が制定し、江藤新平が学校制度に関する法律を整備しました。江藤新平は警察制度の基礎も作りました。江藤は岩倉使節団に参加していませんが、海外の法律や制度に精通していたことを知ることができます。
警察制度の基礎を作った江藤は顔写真による指名手配を考えました。現在、指名手配犯の顔写真を公開することは当たり前のようになっていますが、当時は画期的でした。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は江藤新平の功績について取り上げました。海外留学で人権や法学の勉強をしていたわけではないのですが、これまでの日本になかった人権確立のために司法制度を設計しました。江藤新平が近代司法確立のために参考にした文献があれば紹介したいと思います。
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