大奥のドラマや映画が放映されてきましたが、女性同士の権力争いや愛憎渦巻く女の園というイメージが先行していたという印象を受けた人がいると思います。大奥について知られていないことが多いと考えられます。これまでに大奥について取り上げた記事の中で『大奥の規模はどの位あったの?』では、大奥で働いていた女中の数や経費など幕府の財政面を中心に取り上げました。大奥で働いていた女中は700人程度で、幕末の時が最も多く1000人いたと言われています。
読者の中には大奥で働いていた女中はどのくらいの期間働いていたのか気になっている人がいると思いますが、『大奥の規模はどの位あったの?』では経費節約でリストラがあったケースを取り上げただけで、リストラ以外でやめた女中の話を取り上げていません。ここでは、最初に大奥に秘密が多いことや大奥の内部について取り上げます。その後にリストラ以外で大奥の入れ替えがある場合を取り上げます。
この記事の目次
どうして大奥のことは秘密が多いのか?
大奥に入ると、女中たちは内部情報を漏らさないという誓詞血判をしました。誓詞血判をしているため、内部の記録を残すことができなかったと考えられます。大奥の内部情報が残っていない要因として、職制が複雑で大奥の規模が大きいことから一人の女中が大奥全体を知ることが不可能であると考えられます。
まず、職制について、大きく分けて将軍や御台所に謁見できるお目見え以上、将軍や御台所に謁見できないお目見え以下、お目見え以上の女中に私的に雇われている部屋方の3つがあります。それぞれの職制の中で細かく身分が分かれているため複雑でした。大奥にいる女中は700人ぐらいでした。女中の部屋の数があまりにも多く、全体を把握することが不可能でした。秘密を漏らすことができないだけでなく物理的に把握することもできなかったと考えられます。
将軍死後の大奥女中の身の振り方
将軍の死後、女中はどうなるのか気になっている読者がいると思います。まず、将軍から寵愛を受けた正室や側室の場合、一生江戸城から出ることがありませんでした。将軍の死後、江戸城内の桜田の御用屋敷に移り、位牌をいただいて将軍の冥福を祈っていました。中には出家した女中がいたと言われています。
大奥をやめた女中の待遇は?
江戸時代、女性は独自に身を立てるのが難しい時代でした。女性が唯一キャリアアップできたのが大奥での奉公で、女性が出世できる唯一の場所でした。大奥の女中が出世できるのは次の通りです。将軍の正室または側室になって子を産み、その子が将軍になれば、自分だけでなく親元にも恩恵が及びました。
正室・側室に慣れなかった場合でも御年寄の地位にまで出世できれば権勢を手に入れることができました。大奥で出世できず、途中で大奥をやめたとしても江戸時代の社会の中では評価が高かったようです。当時、大奥奉公が女性の花嫁修業の一環として考えられていたため、結婚に有利になっていました。
上臈年寄には、何世代もの将軍に仕えたケースも
将軍の死去などで代替わりがあった場合、大奥での奉公をやめる女中はいますが、必ずしも全員というわけではありません。大奥の最高職の上臈年寄は二・三代の将軍に仕えたケースは珍しくありません。幕末の大奥の実力者と言われていた滝山については四代の将軍に仕えていました。
財政難の時にはリストラもあった大奥
江戸幕府が財政難になったことがあります。財政難の原因として、大奥の女中が贅沢をしていたため相当経費がかかっていました。経費節約のために大奥のリストラをしたケースがあります。まず、徳川吉宗の享保の改革について取り上げます。『大奥の規模はどの位あったの?』では徳川吉宗による大奥のリストラについて取り上げました。
美人の場合、他に貰い手があるからということで、美人をリストラしました。ブスの場合、貰い手がないことから引き取ったと言われています。また、このリストラは経費節約のためですが、尾張藩寄りの女中を排除する狙いがあったともいわれています。他に、享保の改革の後、寛政の改革の松平定信が大奥に倹約を命令しました。倹約を命令したものの、大奥に嫌われました。松平定信は寛政の改革に行き詰まり、失脚しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は大奥の入れ替えについて取り上げました。大奥に入ると一生出られないと言われていましたが、将軍から寵愛を受けない限り、やめるのもやめないのも自由だったと考えられます。女中の一日の仕事内容や勤務時間からブラック企業になるかならないか気になるところです。
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