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徳川慶喜の素顔!先生が教えない[逸話集]

2024年8月17日


 

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と言えば、ほとんどの人が歴史の授業で大政奉還をした最後の将軍と勉強したと思います。大政奉還(たいせいほうかん)後の徳川慶喜と言えばどのような人ですかと質問されると、潤沢な隠居資金で趣味に没頭していた人と答えられる人はほとんどいないと思います。

 

余生をゆっくり過ごす晩年期の徳川慶喜

 

学校の教科書は歴史の表舞台に登場する人のみ取り上げるので、隠居した人や趣味に没頭した人についてはほとんど取り上げられません。学校や予備校の授業において、雑学で聞いた人がある人ならいるかもしれませんが、あまり時間を取らないと思います。

 

皇帝になった徳川慶喜

 

 

ここでは、大政奉還後の徳川慶喜を中心に学校や予備校でほとんど教えない最後の将軍について取り上げます。最初に、幼少期のエピソードを紹介します。それから酒にまつわるエピソード、趣味の話、女性関係に関するエピソードを取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川慶喜のプロフィール

 

1837年10月28日に水戸藩で生まれました。父は水戸藩主の徳川斉昭(とくがわ なりあき)で、母は吉子女(よしこじょおう)です。吉子女王は皇族の有栖川宮家の出身で、徳川御三家の中で水戸藩は天皇家との結びつきが強い環境のもとで育ちました。

 

14代将軍家茂の補佐役として将軍後見職に就任してから15代将軍に就任しました。15代将軍になると1年足らずで政権を朝廷に返上し、以降謹慎生活をして朝廷に恭順の意思を示しました。この謹慎の態度が評価され、徳川宗家が残ることになり、家督を譲ります。家督を譲ってから静岡で20年間の隠居生活を始めます。東京に戻り、貴族院議員を務めますが、引退後は隠居生活を再開しました。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

1913年に77歳で死去しました。

 

 

徳川慶喜の幼少期のエピソード

 

徳川慶喜は寝相が悪いという問題がありました。父斉昭は寝相の悪さを改善するために枕の両側や体の四隅にかみそりの刃を立てていました。この習慣を続けることで寝相は良くなったそうですが、成人してからも就寝中の緊張感を保つために刃を立てていたという記録が残っています。

 

 

徳川慶喜の将軍時代のエピソード

 

徳川慶喜は14代将軍家茂の死去後、将軍就任を固辞しましたが、当時の孝明天皇の指名により将軍に就任しました。江戸幕府の将軍はほとんど江戸城にいますが、慶喜の場合、将軍に就任してから大政奉還までの間、江戸城に入らず、二条城にいました。

 

これまでの将軍とは異なる点です。徳川慶喜は将軍になると何をしようとしていたのか。朝廷を中心とした新しい政権を模索していたと言われています。当時の朝廷には政治経験がなかったことから徳川慶喜自らが政権の中心となることを模索していました。短い将軍の間に、横須賀では製鉄所や造船所の建設、幕臣の海外留学など西洋の文化を積極的に取り入れようとしていた記録が残っています。学校や予備校の授業では、製鉄所や造船所の建設は取り上げられますが、幕臣の海外留学はほとんど取り上げられません。徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで悪い評価をする人がいるかもしれませんが、将軍の短い間に改革を推し進めた人という見方ができるかもしれません。

 

 

徳川慶喜の酒にまつわるエピソード

 

徳川慶喜は酒にまつわるエピソードもあります。実際に、土佐藩士の雑記の中に慶喜の酒にまつわるエピソードが発見されたようです。ここではその史料を紹介します。酒にまつわるエピソードが載っているのは、土佐藩士の樋口真吉が中岡慎太郎の書状から書き写したとみられる雑記です。その雑記によると、茶わん5杯の酒を飲んで当時の親王を一喝しました。当時の朝廷と幕府の政治の折衝の様子が分かる貴重な史料として注目されています。

 

 

徳川慶喜の隠居後のエピソード

 

徳川慶喜は静岡での謹慎生活が解かれ、潤沢な資金を元手に趣味に没頭しましたが、上手いというわけではなかったようです。

 

『徳川慶喜は静岡で余生を過ごした!―知られざる逸話とゆかりの地を紹介―』で取り上げていますが、鉄道の写真を撮っていたことから撮り鉄の元祖ではないかと思われます。写真雑誌に写真を投稿していました。様々な作品を投稿していましたが、評価は散々だったようです。

 

トリビアの泉で大政奉還後の隠居生活で撮った写真が紹介されていましたが、プロカメラマンの加納典明氏が写真としてダメと酷評でした。自転車について取り上げます。当時、自転車は西洋から輸入された珍しい乗り物でした。慶喜は自転車が好きで乗り回していたようですが、あまり上手とは言えず、溝に落ちたり、壁に激突したりしていたという記録が残っています。下手であるため家臣が慶喜についてきたというエピソードが残っています。

 

 

徳川慶喜の女性関係のエピソード

 

徳川慶喜は将軍後見職として将軍を補佐するようになると、暗殺を恐れて妾2人を川の字かYの字の形に寝かせていました。刺客が来たときに早く気付けるようにしたようです。隠居後も妾の女性と同居していました。妾同士が仲良しだったことや子供と分け隔てなく接していたという記録が残っています。妾の子どもだけでなく、静岡の近所の子どもとも仲良く過ごしていたことから地元の人から「ケイキ様」と慕われていました。

 

 

最後に:徳川慶喜の人柄が分かるエピソード

 

今回は徳川慶喜の逸話を紹介しました。徳川慶喜と言えば最後の将軍とか鳥羽伏見の戦いで会津藩を見捨てた人など悪い評価がほとんどですが、4の酒にまつわるエピソードで取り上げた内容は、酒乱ではあるものの本気で政治改革を迫る姿勢が見られたと思います。隠居後のエピソードでは、徳川慶喜が人々から尊敬されたり、「ケイキ様」と慕われたりしていたことから人柄が分かるかもしれません。徳川慶喜の逸話を通して見方が変わればと思います。

 

 

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