徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。慶喜は新政権を樹立しようとする討幕派の薩摩(さつま)、長州(ちょうしゅう)らの諸藩に対抗するため秘策を打ちます。それは大政奉還(たいせいほうかん)です。そしてこの大政奉還こそ徳川慶喜最後の野望をかけた大秘策だったのです。
この記事の目次
大政奉還って何!?徳川慶喜のアイデアなの!?
徳川慶喜は諸藩の重役を二条城に集めて、大政奉還を行います。ですが大政奉還とはいったい何かを知っているのは少ないと思います。そこでここでは簡単に大政奉還をご紹介しましょう。大政奉還とは徳川幕府が持っていた日本の行政権を天皇へ返したことです。大政奉還を行ったことで徳川幕府は日本の行政を行う統治権が無くなり、一大名家になります。
そして一大名家に落ち着いた徳川将軍家は薩摩や長州藩などの倒幕派から身を守り諸藩を救います。でも「大政奉還」をしたからってどうして倒幕派から身を守ることや諸藩を守る事ができるのか。それは倒幕派が大政奉還を徳川慶喜がした事で幕府が無くなり「幕府を倒す」大義名分を失うからです。以上大政奉還を超簡単に説明しました。倒幕派から身を守るために行った政策だとわかったと思います。でもこの大政奉還は徳川慶喜が全部自分で考えた事なのでしょうか。
大政奉還は徳川慶喜が考えてない!?
上記の大政奉還は徳川慶喜が考えたのでしょうか。結論から言いますと慶喜さん何にも考えていません。ただ他人が考えた案を実行しただけです。
おいおい!!マジかよ!?って思う人が多いでしょう。では誰が「大政奉還」を考えたのでしょうか。それは薩長同盟の立役者で幕末の超有名人・坂本竜馬(さかもとりょうま)です。坂本竜馬は長崎から京都へ向かう船の中で、日本の近代化の為の八つの国家構想を考えます。この八つの国家構想は幕末ファンの人なら誰でも知っている「船中八策」です。船中八策の国家構想の中には大政奉還も盛り込まれていました。
この竜馬の国家構想を聞いた後藤象二郎(ごとうしょうじろう)はすぐに土佐藩の前藩主へ提案。土佐藩の前藩主は幕府を助けたいと考えていたので、「船中八策」を後藤から聞いて大喜びしすぐさま提案書を作成し、慶喜へ提案します。徳川慶喜は土佐からの提案書を見てこの提案を採用し、自らが考えたかのように装って諸藩の重役へ伝え、朝廷へ政権を返すことで倒幕派から身を守ったのです。
自分から政権を返上した徳川慶喜はいい人なの!?
徳川慶喜は大政奉還する事で朝廷へ行政権を返します。徳川慶喜は自ら行政権を手放して古来の日本の姿に戻し、徳川幕府政権に参加していた諸藩を守ったからいい人じゃない。って思う方もいると思います。しかし大政奉還は徳川慶喜がいい人になるために行ったわけじゃあありません。「大政奉還」には、ある狙いが隠していたのです。徳川慶喜は大政奉還で何を狙っていたのでしょうか。
徳川慶喜の新政権構想
それはフランスのような中央集権制の国家を作り、新生国家の大統領や皇帝に近い存在になろうとしていたのです。徳川慶喜はフランスと仲がよく、駐日公使・ロッシュからフランスの国家体制等を聞かされていました。
そして慶喜はロッシュから「YOUは幕府も諸藩も無くして、フランスのナポレオン皇帝のような国家作ればイインジャナイ」とアドバイスを受けます。このロッシュのアドバイスで慶喜は大政奉還を行い、幕府も諸藩も無くして官僚が統治する国家のトップになることを大政奉還で狙っていたのです。慶喜はいい人なんかじゃありません。その証左として徳川慶喜は大政奉還をした後も朝廷から日本の行政を任されていました。もし本当に慶喜がいい人ならば、大政奉還後日本の政治を行うことをしないで、朝廷にそのまま任せていたのではないのでしょうか。
王政復古と大政奉還って何が違うの??
さて倒幕派は大政奉還により幕府を倒せなくなりました。さらに徳川慶喜が新しい国家作りを行い新国家でトップになるような行動を見せます。倒幕派は幕府が無くなっただけで慶喜がトップに立った新国家が誕生するだけじゃんやばい!!と感じます。
そして薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち=当時一蔵)と公家の岩倉具視(いわくらともみ)は逆転の一策を投じます。それが王政復古(おうせいふっこ)でした。では王政復古と大政奉還の違いは何でしょう。まず大政奉還は幕府も藩も廃止し中央集権の新国家を造り近代軍隊を保有し、国家のトップに徳川慶喜が座るものでした。しかし王政復古は徳川慶喜を排除し天皇をトップにした雄藩連合の新しい国家を作ろうとした狙いがありました。両政策の最大の違いは徳川慶喜をトップにした新国家政策と天皇を中心とした新国家政策の違いです。これが大政奉還と王政復古の違いとなります。
どうして大政奉還は失敗したのか。
坂本竜馬が考え、後藤象二郎が提案し、徳川慶喜が実行した「大政奉還」。大政奉還は実行した当初は慶喜が狙った通りに動き、順調に進んでいました。でも結局は王政復古の政策に敗れてしまい、戊辰戦争が勃発し、徳川幕府は跡形もなくなり明治の新国家が誕生することになります。ではどうして大政奉還は失敗したのでしょうか。
それは徳川慶喜のせいではなく、幕府の味方をしていた諸藩のせいです。慶喜は大政奉還が行われた後、王政復古を行った薩摩の大久保や公家の岩倉具視らから嫌がらせを受けていました。彼らは徳川慶喜を守ろうとする勢力と会議を行い、そこで「幕府の領地すべてを朝廷に返しなさい」等の政策を決定し、徳川慶喜へ命令。慶喜はこの朝廷からの命令を聞くと「すぐには無理です。もし強引にやれば部下達が怒って何するかわかりません」と返答します。
こうして領地返上の期間を延ばしてのらりくらりとやっていました。さらに慶喜は大久保達が作った文章の「みんなで会議をして政策を決める」の一文を指摘し、「会議をやり直そう」と提案。この慶喜の指摘がきっかけとなり、幕府の全領地返還の決定が無くなり、慶喜や諸藩を交えて会議を行う事に決まりかけます。このことを知った倒幕派の中心・薩摩藩は幕府や親幕諸藩を挑発するため、江戸へ焼き討ちを行います。
当然幕府の諸藩は激怒。ついに幕府は軍事力を持って倒幕派を倒すため京都へ出陣。そして倒幕派は天皇を守るために幕府を倒すための戦いを行います。この戦いを「鳥羽伏見の戦い」と言います。戦いは三日間行われ、一日目は幕府軍が撤退。二日目は幕府軍が優勢でこのまま幕府軍が勝利するかと思われます。しかし三日目に幕府は朝廷から「朝敵」にされ、倒幕軍から錦の御旗が掲げられます。この事を知った幕府軍は士気がガタ落ちし敗北。徳川慶喜は朝敵にされた事を知って江戸へ逃亡します。
こうして倒幕派は幕府軍を追い返し、新政府としての第一歩を踏み出すことに。その後は東日本を中心に新政府と幕府を守る勢力の戦いが全国各地で勃発しますが、各地で新政府軍が幕府を守る勢力を倒します。幕府を守る勢力を倒した新政府は近代国家を樹立することに成功するのでした。
もし薩摩藩が行った江戸を焼き討ち諸藩が無視していれば、大政奉還が失敗することなく、徳川慶喜が大統領もしくは皇帝となって新しい国家が誕生したかもしれません。そして明治政府は誕生することなく、幻の政府として歴史に名を刻んでいたことでしょう。
幕末ライター黒田レンの独り言
今回は大政奉還のことについてご紹介しました。徳川慶喜が大統領となった国はいったいどうなっていたのでしょう。結局徳川幕府と変わらない状態が維持されたのか。それとも近代国家として慶喜大統領となっていたのか。今となってわかりません。
でも慶喜の新国家はあまりよくない気がします。写真のきりっとした顔立ちの徳川慶喜を見る限り、薄情な気がします。その証左として慶喜は鳥羽伏見の戦いで部下を見捨てて逃亡しています。このことから他人を思いやらない人だったんじゃないかなとレンは思い、やっぱり明治政府でよかったと思いますが、皆様はどのように思いますか。
参考 吉川弘文館 徳川慶喜 家近良樹著等
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