大久保利通は何で暗殺されたの?紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)に迫る

2018年1月29日


 

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幕末時代の英傑であり、

明治政府の最高権力者となった大久保利通(おおくぼとしみち)の最期は暗殺でした。

1878年5月、大久保利通は紀尾井坂で暗殺されます。

その地の名を取ってこの事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。

大久保利通の49年の生涯は不平士族6人の手によって幕が引かれたのです。

一体なぜ、大久保利通は暗殺されなければならなかったのか?

不平士族たちはなぜ大久保利通を狙ったのか。

その理由はいったいなんだったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大久保利通の終焉の地は紀尾井坂

 

1878年5月に紀尾井坂で大久保利通は不平士族により暗殺されます紀尾井坂は、

今の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

暗殺の日の朝、大久保利通はこれからの日本のことについて語りました。

日本の未来を語り、まだまだやり残したことを挙げていたのです。

そんな国の未来を考えていた大久保利通ですが、

自分の未来がこの日に失われることは想像できなかったのでしょう。

大久保利通は自宅を出ました。

明治天皇に拝謁するため赤坂の仮皇居に馬車で向かいました。

そして彼は6人の不平士族の襲撃を受けます。

馬車から外へと引きずり出され、惨殺されるのです。

武器は侍の象徴ともいえる日本刀です。

その刃は首を貫通し、紀尾井坂の地に突き立ったといいます。

惨殺という言葉を使うしかない暗殺でした。

その傷の数は16か所。8カ所が頭であったと記録に残っています。

殺すことが目的なのでしょうが、暗殺実行犯の深い恨みを感じさせる殺し方です。

日本の郵便制度を創り上げた前島密は、その光景の言葉を残しています。

現代風に言うならば「骨も肉もバラバラに切り刻まれ、

頭蓋骨を叩き割られ脳漿をまき散らして死んだ」とうようになります。

そして、致命傷なった大久保利通の首を貫いた日本刀が突き刺さった地の名が、

歴史の中に暗殺事件の名として残ることになったのです。

地名が歴史的事件の名前となることはよくあることです。

紀尾井坂は大久保利通暗殺の地として

「紀尾井坂の変」という名を歴史に残すことになりました。

 



大久保利通暗殺の実行犯は誰?

 

「紀尾井坂の変」、大久保利通暗殺事件の実行犯は6人の不平士族でした。

島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤が実行犯です。

特に主犯と見なされているのが島田一郎です。

島田一郎は石川県の士族です。

幕末時代は加賀藩の足軽として戊辰戦争にも参加している明治政府側の人間でした。

明治維新後も軍人となり明治政府の体制内の人物だったのです。

しかし、彼の立場が変わったのはある事件がきっかけでした。

大久保利通の盟友である西郷隆盛の下野です。

明治6年の政変といわれる事件で、

西郷隆盛は征韓論が受け入れられないことを理由に明治政府を離れ、薩摩に戻ります。

このとき、島田一郎は西郷隆盛に対する明治政府の対応に怒りを覚えます。

彼は征韓論を支持していたからです。

 

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島田一郎は何で大久保利通を暗殺したの?

 

島田一郎は1874年に鹿児島入りしますが、

その間も士族の反乱に対する明治政府の対応を批判する建白書を提出していました。

しかし、こういった言論による意見は全く効果がないと島田一郎は考えるように

なります。もはや明治政府に対し武力的反乱を起こすしかないと考えるに至ります。

そして1877年西南戦争が起きます。

島田一郎は西郷隆盛の挙兵に呼応する形で、金沢での挙兵を画策しますが失敗します。

西南戦争は激烈な戦いとなりますが反乱は鎮圧されます。

大久保利通の盟友であった西郷隆盛は反乱の首謀者として死にました。

非業の死です。

西郷隆盛は不平を抱えた士族たちに命を捧げたといってもいいでしょう。

西南戦争を含め各地で起きていた士族の反乱は、

明治維新とともに「侍」が特権を失ったことに起因するでしょう。

特に幕藩体制の中で年貢米を基本としていた俸給は失われます。

時代の変革期には、新しい時代の波に乗れない人たちが多く生まれます。

これは、どのような時代の変革であったとしても同じでしょう。

そのような人たちをどうするのか?

そのような問いを胸の内に持った士族も多かったのでしょう。

大久保利通の暗殺の主犯者であった島田一郎にもその一人です。

そして島田一郎は彼の「正義」を実現するため、大久保利通を暗殺します。

一方、大久保利通にも「正義」はあったのです。

犠牲があっても日本の近代化を目指すという「正義」です。

このふたつの正義は相容れないものだったのでしょう。

西郷隆盛の死を大久保利通は悲しみました。

彼は決して冷血漢ではないのです。

しかし、国家の大事が全てに優先され、

大久保利通個人の西郷隆盛への思いはどうであれ、

彼は日本の近代化にまい進するのです。

そこに障害があれば、それは徹底的に排除します。

大久保利通の信じる正義のためにです。

彼が全く私欲のない清廉潔白な人物であり、暗殺後に大量の借金を残していたことが分かります。

自分のことですら、日本の近代化のためであれば、後回しなのです。

それが大久保利通という人物でした。

大久保利通は「富国強兵」というスローガンの元「私」を捨て、

近代日本の基礎を創り上げていった政治家です。

しかし、その陰で多くの敵を作っていました。

その中のひとりが島田一郎であり彼もまた、彼自身の正義を持っていました。

それは「斬奸状」という大久保利通暗殺時に持っていた書状に書かれています。

その中には誤解もあります。ただ純粋な思いはあったのでしょう。

しかし、暗殺という手段を取ったことは許されるべきことではないのです。

 

大久保利通暗殺事件の影響

 

大久保利通の葬儀には1200名が集まり、その費用は4500円でした。

これは当時の日本では国葬といってもいいレベルのものです。

そして、島田一郎に連なる者たちへの警察の追及は厳しく、

大久保利通の死を喜んだというだけのことで逮捕される者など石川県人30人が逮捕されました。

また、新聞報道は固く禁ぜられました。報道規制がかかったわけです。

暗殺実行犯の6人は斬首されました。

しかし、その法的根拠は刑法にない「国事犯」とうものであり、

「法の不遡及」(その法律が出来る前にその法に違反したとする行為は裁けない)

という近代法の論理から外れた形で行われたのです。

そして、大久保利通暗殺の影響により、政府要人の移動には軍の護衛がつくようになったのです。

   

幕末ライター夜食の独り言

 

幕末から明治維新にかけては、日本の大きな変革期でした。

江戸時代が遅れた封建的な時代であり、遅れていたということではないのです。

幕府はペリーの来航に対しても毅然とした交渉を行っていたことが最近の史料では分かっています。

また、幕府も近代改革を進めていました。

しかし、江戸幕府には限界ありました。幕藩体制の限界です。

小国の寄り合い所帯のような江戸時代の日本は、

西洋に比べ技術が遅れていたことより、この政治体制の方が問題だったのです。

江戸幕府は日本全土に対する徴税権を持っていません。

国民を教育する権利もありません。それは藩ごとに独自に行われていました。

このような国家体制自体がどうしても、近代化の障害になります。

そして、その障害を排除することは幕藩体制を壊すことであり、

武士階級の存在を許さないものであったのです。

士族と名乗ることはできましたが、それは特権を持つことを意味していません。

切り捨てられた人たちの中にも「正義」はあったでしょう。

しかしそれは、暗殺というテロで実行するものではなかったのです。

その後、士族の反乱は終息し、政府への批判は自由民権運動へと変わっていきます。

暗殺という手段をとった犯人に時後法を適用したのは、褒められたことではないでしょう。

しかし、ここで暗殺者たちに断固たる措置を取らなかった場合、

明治政府の屋台骨は揺らいだと思います。

戦前に起きた2.26事件が、

その前に起きた5.15事件の処分の甘さが一因であったという説を唱える歴史学者も多いのです。

私はそのことを思い出しました。

 

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