「岩倉使節団」については歴史の教科書や資料集で見たことある方も多いのではないでしょうか。「岩倉使節団」は明治時代の最初の方で「明治政府の要人が欧米の情勢をさぐるため」行ったというイメージが強いかもしれませんね。また「岩倉使節団」のメンバー写真を見たことがある方は多いでしょう。
リーダーの岩倉具視の「これで、欧米行ったのか!」と突っ込みたくなる髪型が印象的な写真です。実際あの髪型は「未開国ようでまずい」ということで、欧米訪問中に強制的に変更させられます。明治政府初期の最高権力者となった大久保利通も「岩倉使節団」に同行しています。
国内の整備に力を入れなければいけない時期になぜ明治政府の中枢を担う大久保利通や岩倉具視がイギリス、ドイツなどの欧米諸国を訪問したのでしょうか。今回はその理由について考えていきます。そして「岩倉使節団」とは、いったい何であったのか?歴史の中での評価をしてみたいと思います。
この記事の目次
大久保利通がイギリスに行った理由
「岩倉使節団」が横浜港を出発したのは1871年(明治4年)11月です。まだ明治政府は出来たばかりの時期です。新興国家として国内の様々な問題を解決しなければいけない時期でした。そのため「岩倉使節団」は明治政府内でも「暴挙ではないか」という批判があったのです。
不平士族が不穏な動きをみせ、爆発寸前の状況にあることは明治政府内で常識以前の問題でした。当然、大久保利通がそのことを知らない訳がありません。しかし、大久保利通は特命全権大使の岩倉具視に次ぐ福使として「岩倉使節団」に加わりました。なぜでしょうか? 大久保利通は、若いころは「討幕」。
そして「攘夷」を主張していました。日本から外国勢力を力でもって払いのけるということです。しかし、大久保利通は幕末時代の中で「攘夷」は無理であるという判断をします。信念の人であり、目標のためには手段を選ばず、どのような犠牲を払ってもまい進する人物。それが大久保利通です。
だからこそ、怜悧であり冷血であり酷薄であるという誤解に基づく評判が立ったのです。大久保利通が信念の人であればなぜ「攘夷」をあきらめ変節したのかと疑問に思うかもしれません。そのような誤解を持ち、外国に媚を売っているという誤解による批判も大久保利通にはありました。彼が暗殺という最期を迎えた理由のひとつです。
この誤解は、大久保利通の「目標」が「攘夷」でなく「手段」であったと理解すれば腑に落ちます。大久保利通の目標は、日本という国を欧米諸国と対等な近代国家にすることです。幕末時代の「攘夷」も欧米諸国に侮られない、日本国の力(薩摩藩)を見せつけられると思っていたのです。
しかし、薩英戦争の敗北を経験し「攘夷」では目標である外国勢力に侮られない日本を創るのは無理であると大久保利通は理解します。イギリスに敗北したことは、彼の「手段」を変更する機会となったのです。大久保利通は揺るがぬ信念を持ち目標に向けまい進します。一方で、そのための手段を切り替える柔軟で鋭利な頭脳の持ち主でもあったのです。目標は何ら揺らいでないのです。変わったのは手段でした。「岩倉使節団」はアメリカを経由し、当時世界最大の先進工業国であり、「太陽の沈まない国」と称される世界最強国のイギリスに4か月滞在します。他の国に比べ非常に長期の滞在です。
「岩倉使節団」No.2の大久保利通の意思
そこには、「岩倉使節団」No.2である大久保利通の意志を感じます。イギリスは大久保利通が直接戦った国でもありその力を肌で体験していた国でした。彼の中では「先進欧米諸国のモデル」であったのではないでしょうか。そして国王を持つイギリスは、明治政府の目指す立憲君主国のモデルに近いと思ったかもしれません。大久保利通はイギリス滞在中に、何度も西郷隆盛に手紙を出しています。
西郷は日本に残っていました。(そのことがふたりの間に悲劇を生む原因となりますが)大久保利通は西郷隆盛への手紙で何度もイギリスの国富と精強さを伝えました。彼は4か月の長期滞中に考えたでしょう。世界最強最先進国であるイギリスと、やっと世界の中に船出を始めた明治日本の差です。
この差を埋めることができるのか?
大久保利通の目標である近代国家である日本。欧米諸国と対等な国家を作るという目標としてイギリスはどう映ったのでしょう。その後、明治政府の最高権力者となった大久保利通の眼にイギリスはあまりに隔絶した国に映ったのではないでしょうか。イギリスをモデルにイギリスを超えられるのか? 対等な国家となれるのか。結局その結論は、ドイツ訪問で得られたのではないかと思います。
明治政府はイギリスを追い上げるヨーロッパの新興国家であるドイツを手本として国家建設を行います。大久保利通も鉄血宰相と言われたドイツのビスマルクの政策に「暗示を得た」と語っています。イギリスという目標に達する手段として、彼はドイツという国をモデルに選んだのです。大久保利通の「富国強兵」というスローガン。
「殖産興業」という国家主導による産業の育成政策。これは、イギリスという最強国家を目指すドイツを手本とし、日本もそのラインで近代化を果たそうとしたのでしょう。イギリスの国富、精強さは近代日本の目標ではあっても、手本とするにはあまりにも隔絶し、国おかれた状況が違いすぎていたのです。大久保利通はイギリスに滞在することで、そのことを知ったのではないでしょうか。
岩倉使節団とは何?
そもそも「岩倉使節団」とは何を目標にして、不安定な国内情勢の中、欧米先進国を訪問したのでしょう。理由は主に3点あります。
「条約を結んでいる各国への表敬訪問」「江戸幕府が結んだ不平等条約の改正をするための予備交渉を行うこと」「先進欧米諸国の国情調査」「岩倉使節団」は以上を目的とした友好的使節団でした。
岩倉使節団が重要視していた「不平等条約の改正」
特に重視されたのは、不平等条約の改正です。江戸幕府が幕末に各国結んだ不平等条約を改正しなければ、日本は欧米諸国と対等な国家ではないという共通認識が当時の政府中枢にありました。1872年(明治5年)7月から欧米15カ国との間に結ばれた不平等条約改訂の通告ができる時期が来ます。
この時期が迫った前年の11月。明治政府は「岩倉使節団」を派遣します。不穏な国内情勢の中でもあえて、この時期に派遣したこと。それだけ不平等条約改正のため予備交渉が重視されていたのです。ただ、その目的は全く達成されませんでした。領事裁判権を撤廃しようにも、国内刑法が整備されていませんでした。関税自主権を取り戻そうとしても、商業のルールとなる商法が整備さていませんでした。
明治日本はまだ、近代国家としての形すらできていなかったのです。ですので、欧米諸国にその点を突かれれば全く反論はできませんでした。頭の切れる策士・大久保利通でもどうすることもできません。個人の力の限界を超えています。この時期の日本は、あまりにも近代国家として未熟であり、まだ欧米諸国と交渉のテーブルに立つ資格すらなかったのです。それは、国力以前の問題でした。しかし、「岩倉使節団」は結果として歴史的に重要役割を果たしました。欧米先進国の視察、調査を通し近代日本の方向性に大きな影響を与えたのです。大久保利通の示した国家指針である「富国強兵」、「殖産興業」も彼が「岩倉使節団」に参加していなければ生まれなかったかもしれません。
政府中枢の半数が国を空けた理由
「岩倉使節団」には新生明治政府の中枢となる人物が名を連ねました。政府中枢の半数を動員した大規模な使節団だったのです。岩倉具視を特命全権大使とし、その規模は使節46名、随員18名、留学生43名となります。
大久保利通は岩倉具視をサポートするNo.2として副使となりました。その他幕末に活躍し、明治政府の中心となった木戸孝允(桂小五郎)も副使として同行します。さらに、初代内閣総理大臣となる伊藤博文も使節団の中にその名を見つけることができます。また、留学生の中には後に「日本のルソー」称されることになる哲学者の中江兆民。大久保利通の次男であり、その血統から多くの総理大臣を輩出する外交官の牧野伸顕。津田塾大学の創設者となる当時9歳の津田うめもいました。このような大規模で、政府中枢の人材を半数も派遣する「岩倉使節団」には、反対も声もありました。
新たな日本を創らねばならない時期に2年間もの間、政府中枢の人材の半数が国を空けるのです。その反対もある意味当然といっていいものだったでしょう。しかし、この時期は、不平等条約の改正のチャンスでした。条約改正の通告が可能となる時期がきていたからです。そして、日本の近代化、国内制度の整備には、先進国であるイギリスを中心とした欧米諸国に訪問するのは、必須のことであると明治政府の主流派は考えたのです。
それは、国内で不平士族の不穏な動きが出ている中でも、実施されなければならないと判断されたのです。その最大の目的が不平等条約解消の足掛かりをつくることだったからです。不平等条約の改正は、近代日本が欧米諸国と対等な国家となったという証になることであり、明治政府にとっては最重要課題のひとつでした。
批判が多かった岩倉使節団には意味があったのか?
「岩倉使節団」は最大の目的である不平等条約の改正については、何ら成果を上げることができず帰国します。政府中枢の貴重な人材を2年間の欧米諸国に派遣し、膨大な国費をつぎ込んだ結果が、当時は「全く成果なし」と判断されたのは、仕方のないことだったでしょう。
そのため批判が多かったのは当然であったでしょう。人間はその時代という「今」の中で生きており、それが時代という枠の中に閉じ込められた人間の限界です。当時の人から見れば「未来」は暗幕で閉ざされているのです。今起きていることが、未来にどのような影響を与えるかなど、簡単に見通せるものではありません。
現代に生きる私たちが後知恵で「あの時こうすればよかった」と歴史の人物を批評することがあります。しかし、それは現代という「未来」を生きている我々と、歴史の中の「今」を生きている人たちの視点を無視した暴論でしょう。そうであるゆえに、当時「岩倉使節団」を批判した人たちには、その時点における「正しさ」があったと思います。
しかし、「岩倉使節団」が無意味であったのかというと、そのようなことはありませんでした。凄まじい国力と先進工業力を誇るイギリスを体感したこと。そして、そのイギリスを追いかけるヨーロッパの中の新興国であるドイツを見たこと。少なくとも大久保利通が明治政府のスローガンとして打ち出した「富国強兵」。そして国家主導で行われた産業育成政策である「殖産興業」は、「岩倉使節団」に大久保利通が参加していたからこそうまれたのかもしません。薩英戦争で、イギリスの軍事力の一部を知り、そしてその軍事力を支える国富と先進工業力を目の当たりにしたこと。
そしてそれを追うドイツの存在。この両国を直接見たことにより大久保利通の中に日本近代化の手段が見えたのではないでしょうか。その意味で「岩倉使節団」は日本の近代化に大きな影響を与え、決して無意味なものではなかったと言えます。
幕末ライター夜食の独り言
大久保利通という稀有の人材が幕末時代、明治維新の時代に存在したことは、日本にとって幸運だったと思います。そして、彼が「岩倉使節団」に参加しイギリスとドイツを直接見てその国を観察できたことは、日本の近代化に大きな道筋を作りました。
歴史の中で、あまり評価されない「岩倉使節団」ですが、明治維新後の日本の驚異的な近代化は、大久保利通という稀有な人材に、イギリスとドイツを体験させた「岩倉使節団」に起点を求めることができるのではないでしょうか。
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