大河ドラマを見ていると、井伊直政の旗については井桁の家紋をよく見ると思います。井伊家の家紋には井桁の家紋の他に橘の家紋もあります。井伊家にはなぜ2つの家紋があるのか、2つの家紋にはそれぞれどのような意味があるのか、歴史好きの人の中には気になると思います。
この記事では、井伊家の家紋の由来について、初代当主の井伊共保の代に遡って取り上げます。
この記事の目次
井伊家には家紋が二つあるのはどうして?
井伊家には井桁の家紋と橘の家紋の2種類があります。これらの家紋には初代井伊共保に由来します。初代共保は静岡県浜松市にある龍潭寺に捨てられていた子供で、捨て子を保護し、育てたことから始まります。捨てられていたのが龍潭寺の井戸の脇で、橘の木が生えていたことから、井桁紋と橘紋の2種類あります。
井伊家の橘紋ってメジャーなの?
橘の家紋は井伊直政が使い始めたことで有名になったと言われています。橘の家紋は井伊家だけでなく、織田信長・豊臣秀吉に仕えた前田玄以も橘の家紋を使っています。日蓮宗と井伊家は関係が深いことから井桁に橘の家紋を使っています。
橘ってどんな花?家紋に使用される理由は?
橘の花は柑橘系の果物で、桃の節句に使われます。橘の花は香気と雪に強いことから生命力の強い植物にあやかり家紋として使われるようになりました。文化勲章の花の模様でも橘の花が使われています。
日本史で、橘の花が出てくるのは古事記・日本書記が最初です。古事記・日本書記によれば、不老不死の力を持った薬として持ち帰った記録が残っています。不老不死の薬にあやかって、元明天皇が橘姓を与えたことがきっかけで家紋として使用し始めたと言われています。その後橘氏の氏族や末裔も橘の家紋を使っています。
注意!似ているけど違う橘紋と彦根橘の見分け方
橘の家紋は色々な家で使われています。似ているようで、井伊家の彦根橘と他の橘紋には違いがあります。他の橘の家紋と違う点について取り上げます。井伊家の彦根橘紋と他の丸に橘紋の違いについて、花のヘタの部分が異なります。奈良時代に政権を握った橘氏の家紋は丸で覆われていません。他に橘の葉を崩した家紋、躍動感のある橘紋、橘が菱形になっているもの、橘の花が水を流れているものがあります。
家紋の橘のように千年を越えて続く井伊家
井伊家の初代当主は井伊共保で、捨て子だったと言われています。1010年、井伊谷の龍潭寺の井戸で住職が捨て子を発見しました。その捨て子を保護し、育てて井伊谷初代当主井伊共保となりました。龍潭寺が井伊家発祥の地と言われるようになった理由です。
井伊家は現在に至るまで、何度か断絶の危機に直面しています。『井伊直弼は井伊直虎の子孫なのか?大河をまたいで続く井伊家』では、断絶の危機に直面し、その危機を乗り越えた井伊直虎について取り上げました。井伊直親が直盛の跡を継ぎます。直親には男子がいましたが、暗殺されます。
直親の子どもは幼かったため、出家していた次郎法師が還俗して、井伊直虎と名乗り、井伊谷の当主となりました。井伊直虎は生涯独身で子供がいなかったため、成人した直親の子・直政を養子として迎え、井伊家断絶を回避しました。
『井伊直弼の首はどうなった?消えてしまった首の不思議』では、井伊直弼が子の直憲へ後を継ぐ経緯について取り上げました。本来ならば跡継ぎを決めないで死亡した場合、藩は改易となります。幕府の面子を保つために病死を装うことで井伊家の断絶と彦根藩の取り潰しを免れました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は井伊家の2種類の家紋の由来について取り上げました。井伊家の家系が現代まで続いているのは、桃の節句に飾られる橘の花の生命力に相応しいと言えるかもしれません。