荒木村重は元々、摂津の国人で守護大名池田氏に仕えていました。しかし織田信長の台頭に呼応して手柄を立て、池田氏を下克上して摂津一国の国持ち大名になります。
同時に茶人、千利休の門人として利休十哲にも名を連ねた教養人だった村重ですが、後に信長に叛き、人質にされた妻子を見殺しにして茶人として生き残ったと非難されました。でも、それにはやむを得ない事情があったようなのです。
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三好三人衆に呼応して主君を追放
荒木村重は、天文4年(1535年)摂津国池田城主である摂津池田家の家臣、荒木信濃守義村の嫡男として生まれます。当初村重は池田勝正の家臣でしたが、有能な人物であり池田長正の娘を娶り一門衆の扱いになります。
しかし、下克上の世の風潮に生まれた村重は、その程度では満足せず、強かな野心を巡らし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正と共に主君の池田勝正を追放して三好三人衆を招き入れて、摂津の実権を掌握、野田城・福島城の戦いの契機となりました。
三好三人衆の勢力下で勢力を伸ばす村重は、元亀2年8月28日の白井河原の戦いで信長に任命された摂津三守護である池田勝正、伊丹親興、和田惟政等を打ち破り、摂津の実力者として台頭していきますが、信長が三好三人衆と和睦すると足利義昭を奉じる信長方に投じて茨木城に移動し幕府の家臣の形になります。
細川藤孝と信長に帰順し戦国大名に
一時は良好だった足利義昭と信長の関係は急速に悪化し元亀4年には決裂します。足利義昭は織田家追討の命令を出し、武田信玄や、浅井、朝倉、石山本願寺は義昭サイドに付きますが、荒木村重は義昭を見限り、同じく兄の三渕藤英と袂を分かった細川藤孝と共に織田信長につく道を選びます。
元亀4年3月に信長が上洛すると、村重と藤孝は逢坂でこれを出迎えます。これは自分にどれだけの味方がつくか未知数で不安だった信長の心をつかむナイスなタイミングであり、信長は村重の忠誠を喜び、大ごうの刀を授けたと信長公記には出て来ます。
足利義昭を盟主にした反織田連合軍ですが、上洛途中の武田信玄の病死で全てが崩壊します。信長は足並みが乱れた反織田連合軍に逆襲し、浅井氏と朝倉氏を滅ぼし、三好三人衆も崩壊し三人は戦死・行方不明で歴史から姿を消します。
この時、三好義継も反織田連合軍に与していましたが、信長に追放された足利義昭が義継の若江城に入って、尚も信長に徹底抗戦を訴えた為に、義継の運命は決定します。
激怒した信長は佐久間信盛を大将にした軍を若江城に進ませ村重も従軍しました。騒ぎを起こした義昭は、信長の激怒を恐れて逃げてしまい、残された義継は信長に徹底抗戦しますが、重臣の若江三人衆に寝返りが相次ぎ、城門は内応で開かれてしまい自害して果てました。
一方で村重の主君だった池田知正は、足利義昭に与した後で信長に降ったので、信長は知正を荒木村重の家臣として再編成します。これで主君を組み敷き、下克上を達成した村重は、天正2年に摂津国人伊丹氏の支配する伊丹城を落として伊丹城主となり、ここを有岡と改名。信長により摂津一国を与えられて戦国大名にまで出世します。
短期間に織田家でも富強な大名の一人へ
織田信長の荒木村重の優遇は、大変なモノで天正2年三月の東大寺正倉院の蘭奢待の切り取りに御奉行として加わった重臣の中にも村重の名前があります。摂津国人の松永久秀同様に、村重が優秀な人物であった事が分かります。
イエズス会の宣教師の報告でも、信長部下の大身の一人で、収入と所領が多い、非常に強力な異教徒と称していて、柴田勝家のような信長重臣の当時の支配権と比較しても、勝るとも劣らないものであったようです。
摂津を支配したという事もあり、隣国の播磨やその奥の西国に対する対策も任されていて、居城の備前・天神山城を追われた浦上宗景の為に宇喜多氏の端城を攻略して播磨に拠点を与えたり、播磨の国衆から人質を集めたり、本願寺が信長と敵対を再開した後は、織田と本願寺の外交のパイプを勤めています。
例えば、信長の支配下の播磨御着城主の小寺政職は、荒木村重の支配下にあり、信長の書状は、まずは村重に出され、それが村重から小寺官兵衛に渡されていました。
このように村重は西国担当の重職にありましたが、天正5年(1577年)10月に中国担当の将として、羽柴秀吉が播磨の姫路城に入ると雲行きが怪しくなっていきます。
村重謀反の原因は秀吉に仕事を取られたから
仕事を遣り甲斐にする人をダメにするのに一番いい方法は、何も仕事を与えない事です。これだけで、みるみるモチベーションが低下して心を病んだり、不平不満を抱えて仕事を去ってしまうのです。
kawausoなんかは生来怠け者なので、何もしないで給料がもらえるならラッキーと喜び、一日中漫画やyoutube動画を観て過ごしますけど、、荒木村重が謀反したのは、1577年の10月に羽柴秀吉が鳥取城に入ってから、僅か1年後であり、その謀反に中国攻略を秀吉に取られたという事が関係していると考えるのは突飛ではないでしょう。
秀吉より仕事が出来ない村重を佐久間・滝川が揶揄
荒木村重は自分よりも仕事が出来る羽柴秀吉に嫉妬し、さらにその戦の下手さを織田家の重臣の佐久間信盛、滝川一益にバカにされたという証拠があります。天正6年4月、毛利氏の大軍が上月城を包囲し、守将の尼子勝久、山中幸盛(鹿之助)が援軍を織田家に要請、それに対し、信長は主将を秀吉に、荒木村重もつけて援軍にします。
ふたりの軍勢は、熊見川を挟んで東に位置する高倉山に布陣しますが、谷を隔てているので有効な手が打てず、上月城は7月には落城しました。
この時に、上月城の包囲に参加していた吉川元春の嫡男、元長が吉川氏の菩提寺である安芸、西善寺の住持に宛てた直筆書状があります。書状で元長は上月城内には、勝久や幸盛が籠城し、水や兵糧が尽きている事や敵には秀吉や村重がいると戦況を書いていますが、その後に二首の和歌を書いています。
あら木ゆみ はりまのかたへ おしよせて いるもいられす 引もひかれす
なにしおふ さよの朝霧たちこもり 心ほそくも しかやなくらん
これは、荒木村重を荒き弓と掛けて上月城の救援に向かいながら引くも引かれないとし、もう一首では、鹿と鹿之助を掛けて、有名な上月城の朝霧に囲まれ、鹿之助が心細く鳴いていると二人を揶揄したのです。
何でもない和歌ですが、吉川元長はこの和歌を自分が読んだのではなく、人から聞いたとし、和歌を詠んだのは、勢州瀧川と佐間という二人で、羽柴筑前と荒木の所へ届けられたと書いています。これは、滝川一益と佐久間信盛が読んだ和歌だと言うのです。
しかし、この和歌でdisられているのは、荒木村重一人で秀吉は何とも言われません。村重は戦のまずさを、滝川一益と佐久間信盛に笑いものにされ、屈辱を感じたとも推測されます。
戦が下手だった荒木村重
荒木村重が戦下手らしい証拠はほかにもあります。天正4年5月に織田軍が大坂本願寺を攻撃したさいに、信長は村重に先鋒を命じますが村重はこれを拒否し、木津口の抑えを担当すると言って認められています。その後、信長はこの時の事を振り返り「村重に先鋒を務めさせなくて良かった」と語ったとされています。この信長の呟きをどう取るかで評価は分かれます。
すでに村重が本願寺と通じているので、重要な仕事を任せないで良かったと皮肉交じりに言ったかも知れませんし、純粋に戦が下手だからとも取れます。
そして、村重から見れば競争相手の羽柴秀吉は織田家中でも随一の戦上手でした。既に秀吉の与力扱いの自分に、再び栄光は戻らないと絶望した村重は信長を倒す事で、もう一度自分の野心を叶える道を模索したのではないでしょうか・・
村重謀反に驚く信長
天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重は有岡城で反旗を翻します。信長は突如の謀反に驚き、糾問の為に、明智光秀、松井友閑、万見重元に説得されて一度は翻意しますが、安土城に釈明に向かう途中立ち寄った茨木城で家臣の中川清秀に「信長は一度猜疑心を持てば決して許さず必ず滅ぼす」と言われて伊丹に戻ります。
信長は諦めずに、村重と旧知の小寺秀隆(後の黒田官兵衛)を使者として派遣しますが、村重は土牢に監禁します。以後、村重は有岡城に籠城し一年間徹底抗戦します。しかし、側近の中川清秀と高山右近が信長に寝返ってから追い詰められます。
その後も、万見重元の軍を破るなど奮戦する村重ですが、兵糧が尽きはじめ、毛利氏の援軍も期待できず、天正7年の9月2日に単身で有岡城を脱出。嫡男の荒木村次の居城、尼崎城に移動します。
妻子を見殺しにして生き残る村重
11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおの妻子を助ける」という約束を村重の城代の荒木久左衛門(池田知正)等荒木家の重臣と取り交わします。久左衛門は人質として有岡城に妻子を残し、尼崎城の村重に降伏して下さいと説得します。
ところが村重は受け入れず戻るに戻れなくなった久左衛門は妻子を見捨てて出奔しました。激怒した信長は、村重や久左衛門の見せしめで人質の処刑を命じ、12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松で鉄砲や長刀で殺されます。
さらに、12月16日には、京都に護送された村重一族と重臣の家族36人が大八車に縛り付けられ市中を引き回した後で六条河原で斬首。さらに信長は降伏を拒否して逃げた村重の一族を、執拗に追及して次々と殺していきました。しかし肝心の村重本人は息子・村次と共に荒木元清のいる花隈城に移動しここも落城、今度は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したようです。
本当に村重は妻子を見殺したのか?
我が身は生き残り、妻子は見殺しにした荒木村重は大変な卑怯者に見えます。でも、実際の村重の胸中は複雑でした。実は尼崎城と花隈城には、織田信長と石山本願寺との和睦に従わない本願寺顕如の長男、教如を支持する一向一揆勢が流れ込んでいた説があるのです。これは、信長と顕如の和睦条件に石山本願寺・尼崎城・花隈城の開城が含まれていることからも裏付けられます。
つまり村重は降伏したくても、合流した本願寺の勢力は降伏を拒否するので尼崎城も花隈城も織田軍に引き渡せず、泣く泣く妻子が殺されるのを黙って見ているしか方法が無かったかも知れません。
(ゆるせ、、だし、、仕方がないのだ、わしには、どうする事もできんのだァ・・)村重の胸中は誰にも分かりませんが、妻と子供を殺され平気な人間はいないでしょう。
出家して名前を道糞とする自虐の最期
毛利氏に匿われていた村重は、天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住しました。豊臣秀吉が覇権を握ると大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもち、利休十哲として活動します。しかし有岡城の戦いで、自分を裏切った高山右近のようなキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を秀吉に讒訴して失敗、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなくなります。
さらに秀吉が出陣中している最中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所にバレたので、処刑される事を恐れて出家し、荒木道糞と名乗りました。道糞とは道端のウ〇コであり、なんの価値もなく人に蹴り飛ばされる存在だと自分を卑下するものでした。ただ道糞は後に秀吉に許され、道糞はあんまりだとして、道薫と名前を変えるように言われたようです。そして天正14年(1586年)5月4日荒木道薫は堺で死去します。享年は52歳でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
晩年の口汚さを見る限り、荒木村重は腹に一物も二物もある癖の多い人だったのでしょう。しかし、有能な人には違いなく、それ相応の野心を持ち、天下に名を轟かそうと考えたのでしょう。ただ、羽柴秀吉と言う己を大きく上回るライバルが出てきて、その地位を脅かされたことが、村重の絶望を呼び起こし、悲惨な転落人生へと導いたのかも知れません。信長が上手い事配置換えを行い、新たな職場を与えられれば、村重が叛く事はなかったのかもと思いますね。
参考:織田信長不器用すぎた天下人 河出書房新社
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