井伊直弼といえば、大老に就任してから反対派を弾圧した安政の大獄が有名です。多くの歴史ファンが開国を決断したから評価できるとする一方で、独裁者だとする厳しい評価をする人もいて、意見が分かれています。今回は、井伊直弼の政治の評価をしないで、安政の大獄の始まりから終わりまでを時系列で見ます。
この記事の目次
安政の大獄の始まりから終わりまでを時系列で紹介
江戸幕府の将軍が12代目徳川家慶のとき、ペリーが浦賀に来航し、開国を迫ったことで、老中の阿部正弘は1854年に日米和親条約を締結しました。阿部正弘はこれまで政治に参加できなかった外様大名や朝廷にまで広く意見を求めて、政治改革を行おうとしました。その結果、前の水戸藩主徳川斉昭や島津斉彬・伊達宗城など、有力な外様大名が政治に参加して体制を立て直そうとしました。
12代将軍家慶の死去により徳川家定が13代目将軍に就任します。家定は病弱で、世継ぎができないことから将軍継嗣問題に発展します。対立の図式は、井伊直弼が推す徳川慶福(のちの家茂で、南紀派)と一橋(徳川)慶喜を推す一橋派です。
一橋派は尊王攘夷派が多く、梅田雲浜らが朝廷に働きかけて天皇から条約調印の勅許を出せないように工作しました。これが安政の大獄の始まりであると言われています。安政の大獄で、朝廷・藩士・浪人など身分に関係なく、井伊直弼に反対する人が処刑されました。安政の大獄は桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたことにより終りました。
安政の大獄1 条約調印に抗議した水戸派の大名の謹慎処分
江戸幕府は天皇から勅許を得ないで日米和親条約を締結しました。この条約調印に対して、徳川斉昭・徳川慶勝(尾張藩主)、松平春嶽ら水戸派の大名は江戸城に抗議するために無断登城します。本来、無断登城は定められた日以外に無断で江戸城に登城してはいけない、という決まりの違反行為です。この違反行為をしたことにより、徳川斉昭ら無断登城をした大名に隠居・謹慎処分が下されました。
安政の大獄2 戊午の密勅による天皇の政治利用で弾圧が激化
江戸城に条約調印に抗議するために無断登城した水戸派の大名は隠居・謹慎処分となりました。この処分に反発するために、水戸派は天皇を利用します。その利用した結果、水戸藩に戊午の密勅が出されました。密勅とは秘密裏に正式な手続きを経ていない文書で、幕府は知ることができません。戊午の密勅を受け取った水戸藩は、全国に天皇の声明を通達するように命じられました。密勅の内容は、孝明天皇が朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した幕府を非難するものでした。
安政の大獄3 全国規模に拡大した大獄の被害者
水戸派の大名らが井伊直弼を牽制するために天皇を政治利用しましたが、このことがかえって安政の大獄の弾圧が激化したきっかけになったと考えられます。弾圧されたのが、大名だけでなく、藩士・浪人・学者・朝廷も弾圧の対象となりました。
この中には吉田松陰や頼三樹三郎など著名な学者も含まれています。
安政の大獄4 桜田門外の変で伊井の死と共に終息する弾圧
安政の大獄は桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたと同時に終息しました。桜田門外の変後の文久の改革で、勅命により徳川慶喜・松平春嶽が謹慎を解かれ、公職に復帰します。14代将軍徳川家茂を補佐するために、徳川慶喜は将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職にそれぞれ就任しました。
同時に、安政の大獄で処罰された者は、隠居・謹慎処分が解かれたり、釈放されたりしました。一方で、井伊家に対して、井伊直弼が大老の頃の専横に対する処分として、彦根藩は10万石削減する処分が下されました。江戸幕府は公武合体路線に向かいますが、水戸藩が天皇を政治利用したことが、天皇を政治利用して倒幕が可能であることを気付かせるヒントにもなりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事の読者には井伊直弼が桜田門外の変で殺害されたために、江戸幕府の求心力が衰えたと考えている人が多いと思います。今回は天皇の政治利用で倒幕が可能になったという観点で執筆しましたが、天皇の政治利用と倒幕が結びつかないと感じる人が多いかもしれません。江戸幕府倒幕までの過程において、孝明天皇の後の明治天皇を利用した江戸幕府の倒幕との関係に注目したいと思います。
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